竜太郎の身体のどこかがキュッと痙攣《しび》れる。しかし、恐怖の感じは、まるっきりなかった。
(王女万歳! と叫んでやろう。ひとつ、日本語でやるかな)
 心の中で、こんな陽気なことを考えていた。
 その瞬間、思いがけないひとつの想念が、隕石のように心のうえに落ちかかった。……じぶんの厭世的な感情も、自棄的な態度も、絶え間ない自殺への憧憬も、それらは、みな、じぶんの母国へのやるせない郷愁のせいであったということを! 母国!……この最後の時になって、はじめて、はっきりと、それを了解した。
(祖国!)
 はるかな日本の山川のただずまいを、灼きつくような思いで、心のうえに、思い浮べた。ぼんやりと、眼が霞んできた……。
 兵士が銃を取り上げた。
 ずらりと並んだ黒い銃口の後に、鈍重な顔、無心な顔、快活な顔、生真面目な顔……。いろいろな顔が、そのくせ、何とも説明のつかぬ相似で貫かれながら、じっと、竜太郎を眺めていた。
(いよいよ、これで、最後か)と、心の中で、呟いて見た。しかし、何の感じも起きなかった。たとえようもなく、ほのぼのとした気持だった。竜太郎は、祖国とただひと夜の愛人に、心から訣別のことばを送った。(さよなら……、さよなら……)
 突然、やや遠くで、轟くような大砲の音がし、それを追いかけるように、あちらこちらの寺院の鐘が、一斉に鳴りはじめ、無数の人の歓声が怒濤のように湧き起った。殷々たる砲声と、寺院の鐘と、人のどよめきが、入り乱れ、混り合い、空をどよもして響きわった。

    十二

 復興式《ルネッサンス》の荘重な前面《ファサート》を持った王宮の前庭には、それを、三方から囲うようにして、数万の人民が堵列していた。手に手に緑と藍と白のリストリアの小さな国旗を持ち、謁見式への自動車が通るたびに、一斉に喊声を浴びせかけた。
「万歳!」
「リストリア王国万歳!」
「エレアーナ王女万歳!」
 高低さまざまに、微妙な階調をつくりながら、渾然たる歓喜の総量となって空に立ちのぼる。
 竜太郎の乗った自動車は、熱狂した歓呼と歓声の間を、ゆるゆると王宮のほうへ進んで行った。
 ちょうど、芝居の急転換のような、目まぐるしい一週間だった。
 あの、息づまるような刹那に、竜太郎が聞いた、大砲と鐘とどよめきの声は、反乱軍の突然の背反《レヴォルト》と、スタンコウィッチとステファン両家の和議成立を
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