竜太郎は、真先に来たのを体当りで押しころがしておいて、二番目の、見上げるような大男の剣帯をギュッとひっ掴んだ。跳腰が見事にきまって、靴底を空へ向け、両足で孤をかきながら、車道の方へ落ちていった。
竜太郎は、精悍な表情で、ピッタリと石壁に背をつけ、ゆっくりとペン・ナイフの刃を起していた。
十
竜太郎は、悪臭のする、じとじとと湿った敷藁のうえで、ボンヤリと眼を開いた。灰色の軍用混凝土《シマン・ダルメ》で塗りかためられた穹窿《アーチ》形の天井が低く垂れさがり、やや隔ったところで、裸の電灯がひとつ冷酷な光を投げていた。ムッとするような体臭と人いきれと、長い廊下の方から来る、地下室に特有な冷湿な風と馬尿の匂いが複雑に混淆して、強く鼻孔を刺戟した。
ガランとした部屋の中には二十人ばかりの人がいる。穹窿の太い柱に背をもたせて撫然としているものもあれば、リズミカルな歩調で壁にそって歩きまわっているものもある。円座になった七八人の一団。腕を組合せて立っている二人。その奥の人影は朦朧と影のようにゆらめいていた。しめやかとも言えるような空気がこの広い場所を領し、廊下を振子のように往復する重い靴音だけが、浮き上るように響いていた。天井が陰気な谺をかえした。
竜太郎は、藁の上に片肘を立てようとしたが、右腕も左腕も全然用をなさなくなっているのに気がついた。両腕ばかりではない、肘を起そうとした途端に、骨を刻むような鋭い疼痛がきた。頭が割れるように痛み、咽喉はひりつくような激しい渇きをおぼえた。
思わず、呻き声をあげた。
六十ばかりの寛容な面持をした白髪の老人が、寄って来て、無言のまま竜太郎の枕もとに坐った。こうして、坐っていてやりさえすれば、相手を慰めることができると思っているふうだった。竜太郎には、すぐ、その心が通じた。
「どうぞ、水を」
老人は、無言のまま首を振った。
竜太郎は、たずねた。
「ここは、どこです」
老人は美しい抑揚のある仏蘭西語でこたえた。
「マリッツァ砲台監獄の地下牢です」
ぼんやりと、記憶が甦ってきた。
じぶんのペン・ナイフが浅黒い顔をした男の頬を斜めに斬り裂き、おさえた指の股からあふれるように血が噴き出し、ゆるゆると袖口の方へ流れ込んでいたことが妙に鮮かに残っていた。ひと跳躍して、街路樹に背をもたせて喘いでいるやつへ飛びかかろうとしたと
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