、たとえば、蒸溜器の中で調合された媚薬の香とでもいったような、言いあらわしようもないふくよかな香気で、それが、水脈のようにあとをひきながら、ほのぼのと広間の出口のほうへ流れている。
 竜太郎は、われともなく心をときめかして、かぐわしいその水脈に乗って、吸い寄せられるようにそのほうへ歩いて行った。

 土壇《テラッス》へ出てゆくと、片かげの薄闇の中に、竜太郎の揺椅子《ロッキングチェヤ》にひとりの婦人が掛けて、しずかに海を眺めていた。黒檀《こくたん》色の海の上で、船の檣灯《しょうとう》の光が、いくつも重なり合い、ちょうど夜光虫のようにユラユラとゆれている。すこし湿った大気の中に春の息吹のような軽々とした香りが立ち迷っていて、微かな海風が起るたびに、なよなよと竜太郎のほうへ吹きつける。さきほどの微妙な香気は、この婦人からくる匂いだった。
 竜太郎は長い間、竜舌蘭《アローエズ》のそばに立ちつくして、気がついてくれるのを待っていたが、いつまでたっても、その婦人は身動きもしない。なにか、深い物思いに沈み込んでいるのらしく、すぐそばに竜太郎が立っていることに、まるっきり気がつかないふうだった。
 そのうちに、竜太郎は、どうにも辛抱が出来かねる気持になってきたので、思い切ってそのそばに進みよると、こんふうに[#「こんふうに」はママ]、声をかけた。
「たいへん、失礼ですが……」
 婦人は、ビクッと神経的に肩をふるわせて急にこちらへふりかえると、まだ夢から醒めきらぬひとのようなぼんやりした表情で、竜太郎の顔を見あげた。その頬に、涙の痕が光っていた。ようやく二十歳になったくらいの若い娘だった。
 なんという、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた面ざしであろう。
 ブロンドの柔毛のような髪が、すき透るような蒼白い顔のあたりに三鞭酒色《シャンパン》の靄をかけ、その中に吸い込まれてしまうような、深みのある黒い大きな眼のうえで、長い睫毛が重そうにそよいでいる。
 なににもまして、驚かれるのは、たとえようもない貴族的な美しい鼻と、均勢のとれた楕円形《オブアール》の顔の輪廓だった。近東の古い家系の中で稀れに見られる『|美の始源《オリジン・ド・ボオテ》』という、あの高貴な顔だちだった。ロオレンスでさえも、このような※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−9
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