、たずねた。
「どういう、用件で?」
 竜太郎は答えなかった。今度は、仏蘭西語でたずねた。
「リストリアへ、……どういう、用向きで」
 鋭い眼が、まともに竜太郎の眼を瞶めていた。質問というより、訊問というのにちかかった。
「語学の勉強に」
 この返答は、たしかに士官の度胆を抜いたらしかった。が、依然として辛辣な表情をかえずに、
「語学の勉強? |確実に《エギザクトリィ》?」
「|確実に《アブソリューマン》」
「語学の勉強には、少々、不適当な時期ですな」
 士官の表情に、露骨に、不審をあらわしていた。
「マナイールまでおいでですか」
 竜太郎の背筋を、小さな戦慄が走った。
 この国境の近くで、何か重大なことが起りかけている。じぶんの返答ひとつで、予測し難い危険が身に迫るらしかった。咄嗟に、どう答えていいのか、判断がつかなかった。
 ふと思いついて、ダンピエール先生からもらった紹介状をとり出して、食卓の上へおいた。「今度の主要な用件は、リストリアの文部次官に会うことなのですが……」
 士官は、紹介状を手にとって、仔細に眺めはじめた。紹介状には、学士院会員ギュスタフ・ダンピエールと文部参事官ポール・ジャルウの二人の名前になっていた。
 士官の表情のなかから、ふと、辛辣な色が消えた。
「よろしい。滞在日数は?」
「いまのところ、まだ未定です」
「毎朝陸軍司令部へ出頭して査証《ヴィザ》を受けて下さい」
 竜太郎は、車室へかえった。汽車はゆるゆると動き出した。
 陸軍司令部……。ただならぬ感情が、じかに、胸にせまった。
(いったい何が起ったんだろう? )
 ※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけたエレアーナ王女が、チラと瞼の裏をよぎった。
 列車は、短い隧道をいくつもくぐりぬけ、大きな停車場に走り込んだ。
 マナイール!
 立ち上りかけて、竜太郎は、よろめいた。気の遠くなるような一瞬だった。
 停車場の前の広場は、雨気をおびた雲の下で、黒々としずまりかえっていた。一人の人影もなかった。
 ぼんやりとした遠近図《ペリスペクチフ》をかく家並の線。どの窓も、みな閉され、ちらとも灯火が洩れなかった。この首府は、喪に服しているような、深い沈黙のなかに沈み込んでいた。
 運河をへだてた、やや近い森のうしろから、サーチライトの蒼白い光芒が、三条ばかり横ざまに走り出し
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