が登位してステファン五世となり現在に及んでいる。エレアーナ女王殿下は……
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「エレアーナ女王殿下……」
竜太郎は、手荒く本を閉じる。
あの小さな娘と、いまリストリア王国の女王の位にのぼろうとしている王女《プランセス》とが同じ女性だと信じまいとする。あの夜の娘は、王女などではなくて、南仏のどこかのホテルの土壇でいつかのように海を眺めているのにちがいない。もし、そうだったら、どんなに有難いか、などとかんがえる。
しかし、ちょっと例のないような美しさも気品も、あの寛濶さも、今にして思いかえすと、たしかに卑俗の所産ではなかった。
竜太郎は、椅子の背に頭を凭らせて、軽く眼を閉じる。……あの夜の記憶が、忘れていたような細かいところまで、おどろくほどはっきりと心に甦ってくる。
なんとも言えぬ厚味のある鷹揚な態度。どんな時でも悪びれないあの落着きかた。……ちょっとした眼づかいの端々にも、高貴《ノーブルテ》の血型が明らかにうかがわれた。
と、すると、あの夜の少女は、やはり、リストリアの王女だったと思うよりほかはないのであろう。
竜太郎は、悒然とした顔つきで椅子から立ち上ると、部屋の端のほうまで歩いて行き、壁に貼りつけられた地図をしみじみと眺める。
リストリア王国は、ルウマニヤとチェッコ・スロヴァキヤに挾まれた群小国の間にぽっちりと介在している。
不等辺三角形をしたその国の央《なか》ほどのところを、青ペンキ色に塗られたダニューブの河が流れている。
青いダニューブの河! その岸に、マナイールが、首府の標の二重丸をつけてたたずんでいる。
マナイール!
竜太郎は、その上へ、そっと人差指を置きながら、こんなふうに弦く。
「ここに、おれの薄情な恋人が住んでいる。……あの悲し気な眼つきで、ダニューブの水でも眺めているのだろうか」
地図の上を強く磨すると、指先にダニューブの青い色がついて来た。
眼に指先を近づけて、それをじっと眺めているうちに、むしょうに、あの少女に逢いたくなって来た。なんでもいい、たった、ひと眼でいい、一旦、そう思い出したら、もう方図がなかった。
がむしゃらな、一途の激情が滾《たぎ》り立って来て、抑えようがない。息切れがして、すぐ傍の椅子の中へ落ち込んでしまった。
竜太郎は、両手で顔を蔽って、長い間激情と戦っていたが、そのう
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