娘が……」
 冷淡な声で、番頭が遮った。
「昨日は、お発ちになるお客さまばかりで、お着きの客はございませんでした」
「でも、昨夜、土壇《テラッス》で……」
「ご旅行の方が、ご自由にお立ち寄りになりますから」
 ご旅行の方! この、ちょっとした言葉が、針のように鋭く竜太郎の耳を抉《えぐ》った。
「今朝早く、鼬鼠のケーブを[#「ケーブを」はママ]着た」
 番頭は、手で遮った。
「なにしろ、手前は、たったいまここへまいったばかりでございますから、何分にも……」
(昨夜、十二時半が鳴るのをたしかに聞いた)
「では、昨夜おそく……たぶん……」
「なにしろ、大勢のお客さまのことでございますから」
 竜太郎はしおしおと、自分の部屋のほうへ帰りかけた。
 何とも言い表し難い、はげしい孤独の感じが、鋭く胸を噛んだ。竜太郎は、この長い間、いつでもひとりで暮らしていた。しかし、こんな寂しさを感じたのは、これが最初だった。世界中から自分ひとりだけが見捨てられたような佗びしさだった。自分の部屋の前へ帰って来て、ふと見ると、部屋の扉が半開きになっている。感動して、思わずそこで立ち止った。息苦しくなってギュッと拳を胸におしあてた。
(帰って来たんだ!)
 竜太郎は喜悦の情に耐えられなくなって、勢よく扉を押して部屋の中へ走り込んだ。
 空色の大きな絨氈の上に、朝日が陽だまりをつくっている。部屋の中には誰れもいなかった。
 竜太郎は唇を噛んだ。そうしようとも思っていないのに、ひとりでに身体が動いて、絨氈の上にどっかりと胡坐をかいて腕組みをした。
(なるほど、こうすると、たしかに落ちつく)
 ふと日本から遠く離れていることを思って、うっすらと涙ぐんだ。この、十何年にまだ一度も無かったことだった。

 時計が八時をうつ。
 竜太郎は、低く、つぶやく。
「今日は、いよいよ死ぬ日だ」
 この部屋の窓からも、真向いに、南画のような松をのせた赤い岩が見える。地中海の青い水がはるばるとひろがっている。
「間もなく、おれは、あそこで死ぬ」
 そのほうは、もう何の感じもひき起さなかった。ただ……。
(もう一度、あの娘に逢ってから死にたい)
 そう思うと、矢も楯もたまらなくなってくるのだった。……
 思いがけもなく、こんなことをおもい出した。
(あの匂いは、たしかに、食堂の入口にも漂っていたようだったが、あの娘がひょっ
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