撓《しな》う小さな手だった。
「……そこで、あなたの名は?」
少女は返事をしなかった。
「では、苗字だけ」
少女は、悲しそうに、首を振った。
「あなたのことは、何もきいてはいけないのですか」
「えっ、何も!……どうしても、それは、もうしあげられませんの」
そういうと、気がちがったように、竜太郎の手を自分の胸に引きよせながら、
「どうぞ、あたくしを、好きだと言って、ちょうだい」
(どの女も、どの女も、みな同じようなことを言う。……あたしを好きだっと言ってちょうだい)
「ね、……どうぞ、たったひと言でいいから……」
竜太郎は、そっと、ため息をつく。
「お嬢さん、あなた、だいすきです。……私は、あなたがどんな方なのか知らないし、お目にかかるのも今日がはじめてですが、あなたを好きになるのに、それでは不充分だということはない。……あっ、このまま、あなたと離れないですむなら……」
どんな出鱈目でも、平気で言えそうだった。
(どうせ、明日までのいのちだ。言いたいだけたわごとを吐いて見ろ)
明日までのいのち……。
もう、馴れ切ったはずのこの考えが、石のように重く心の上に隕《お》ちかかり、ひどい力で胸のあたりを締めつけた。
(あすになれば、この娘とも……)
なにか抵抗し難い、劇しい感情が、火のように血管の中を駆け廻る。
竜太郎は、われともなくそぞろな気持になって、少女の背に腕を廻すと、力任せに抱きよせた。
「ああ」
少女は、眩暈《めまい》しかけたひとのような、小さな叫び声をあげると、まるで、ひとひらの羽毛のように軽々と竜太郎の腕の中へ落ちこんできた。この小さな身体が手の囲いの中で、今にも消えてしまいそうな感じだった。……※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた、ほんとうに、この世のものとも思われぬようなつややかな顔を空へ向け、ぐったりと、死んだようになって、眼を閉じていた。
三
薄眼をあけて見ると、夜明けの色が、ほの青く窓を染めかけていた。
重苦しい睡気が頭のうしろに絡みつき、まだ半ば夢の中にいるような気持だった。
とつぜん昨夜の記憶が鮮やかに心の上に甦って来た。昨夜ここで……。
竜太郎は、小さな声で呼びかけた。
「眠っているの」
部屋の中は、ひっそりとしずまりかえっていて、時計の音だけが、浮き上るように響い
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