とを見ていた。
久美子のうろたえようが目ざましいので、笑止に思ったのか、
「どうも、失礼しました」と口髯が笑いながら挨拶した。
「誰もいないと思っていたもんだから」
明晰な、そのくせ抑揚のない乾いた調子で、秀才型が見えすいたお座なりをいった。
「失礼ですが、どなたでしょう」
口髯があっさりとうけとめた。
「われわれは警視庁のものです……私は捜査二課の神保……こちらが捜査一課の加藤君……このひとは伊東署の刑事部長で丸山さん……」
そういうと、いまのところひと息つくほか、なんの興味もないといったようすで、ゆったりと長椅子に腰をおろし、三人でとりとめのない雑談をはじめた。
「大池さんはお留守なんですけど、ご用はなんですか」
丸山という刑事部長は、チラと久美子のほうへ振返っただけで、返事もしなかった。
五分ほどすると湖畔のほうへ行った警官とロッジの裏手へ行った私服が後先になって広間へ入ってきた。
「ご承知のようなわけでねえ」
刑事部長が空《そら》っとぼけた調子でいった。
「ちょっと家の中を見せてもらうよ……大池の部屋は?」
久美子は広間から見あげる位置にある中二階のドアを指さした。
「あれらしいわ」
「ふむ?……らしい、というのは?」
「階段をあがって、昨夜、あの部屋で寝たようですから……あれが大池さんの部屋かどうか、あたし、よく知らないんです」
刑事部長は、ああとうなずくと、いま広間へ入ってきた私服に眼配せをした。
私服は階段をあがって、大池の部屋へ姿を消した。
広間に残った四人は、隅のほうへ立って行って、なにかひそひそと協議をしていたが、そのうちに捜査の段取りがついたのだとみえて、私服と警官が奥の部屋へ入って行くと、戸棚をガタガタさせたり、抽出しをあけたてする音が聞えてきた。
加藤という秀才型の係官はノンシャランなようすで広間の中をブラブラと歩きまわり、煖炉棚の花瓶や隅棚の人形を眺めていたが、そこの床の上に置いてあった絵具箱をとりあげると、だしぬけに久美子のほうへ振返った。
「大池さんは絵を描かれるの?」
「いえ、それはあたしの絵具箱です」
係官は、ほうといったような曖昧な音をだすと、煖炉のそばへ行って椅子の背に掛け並べた濡れものにさわってみた。
「これは君のジャンパー? もうすこし火から離さないと、焦げちゃうぜ」
そういいながら濡れしおった運動靴をとりあげると、めずらしいものでも見るような眼つきでしげしげと靴底を眺めた。
「ひどく濡れてるね。これは乾かさなくともいいのかね」
靴が濡れていれば、どうだというのだ。お義理にも相手になる気がなくなり、久美子は聞えないふりをしていた。
二十分ほどすると、二階の寝室と奥へ行っていた連中が広間に戻ってきた。また隅のほうへ立って行って、五分ほど立話をしていたが、久美子のそばに年配の刑事を一人だけ残し、あとの四人がロッジから出て行った。玄関の脇窓から、四人の官憲が車のそばに立って協議しているのが見えた。
間もなく、二人の私服と警官が湖畔のほうへ行き、捜査二課と捜査一課が広間に入ってきた。
「ちょっとお話を伺いたいのですが……参考までに……」
加藤という係官が、愛想よく久美子のほうへ笑いかけた。
「この長椅子を拝借しよう……神保さん、あなたも、どうぞ」
捜査二課は椅子をひきよせて、傍聴するかまえになった。
「お取込みのところを、恐縮です」
「お取込み、なんてことはないんです、あたしのほうは」
年配の刑事は食卓の上に手帖をひろげ、わざとらしく腕で屏風をつくっている。それが久美子の癇にさわった。
「これは訊問なんですか」
「飛んでもない」
秀才がまた笑ってみせた。
「ここは警察の調べ室じゃないから、訊問なんかできようわけはないです……大池氏が自殺をする前後、どんなようすだったか、参考までに伺っておきたいということなので……」
「つまり挙動てなことですね……自殺する前後のようすといわれたようだけど、自殺してからのことは知らないんです。キャンプ村の管理人が飛んで来て、はじめて知ったくらいのもので」
「なるほど……ご存知なければ、前のほうだけでも結構です」
「たいして参考になるようなこともなかったわ……六時半ごろ、罐詰のシチュウとミートボールで簡単に夕食をしました……一人で湖畔を散歩して八時ごろロッジへ帰ったら、大池さんは二階の寝室へ行って、広間にはいませんでした」
「大池氏の家族のほうにも、われわれのほうにも、K・Uという頭文字《イニシァル》しかわかっていないのだが、昨夜、大池氏から家族にあてて、K・Uとこの湖で投身自殺……つまり心中するつもりだから、あとのところはよろしくたのむという遺書まがいの速達が届いたというのです……K・Uという女性は、大池氏の愛人なので、三年ほど前から、影のようにずっと大池氏といっしょにいた……大池氏の手箱から、K・Uという署名のある恋文がたくさん出てきたので、文面から推しても、これはほぼ確実なことなんです……ざっくばらんにおたずねしますが、K・Uという女性はあなたですか」
K・Uといえば自分の姓と名の頭文字だが、久美子がその女性であろうわけはなかった。
「それは誰かちがうひとでしょう。あたしは大池さんには、昨日お目にかかったばかりで」
「ああそうですか」
捜査一課ほもっともらしくうなずき、煙草の煙の間から眼を細めて久美子の顔をながめていたが、灰皿に煙草の火をにじりつけると、説得する調子になった。
「新聞でお読みになったろうと思うが、東洋銀行の浮貸しで、三億円ばかり回収不能になった……大池氏は潔癖なひとだったようで、失踪中にも焦げつきの補填をしようというので、いろいろと努力されたふうだった……K・Uという女性は、その辺の事情をよく知っていたらしいから、説明してもらえたらというのが、ねがいなんです……写真なんかもないからどんな顔だちのひとなのか、それさえわからない。当人が自発的に名乗り出るのを待つほか、われわれのほうには手がないわけで……あなたの不利になるようなことは、一言も言ってくれなくても結構です。失踪中の大池氏の経済活動の状態を、だいたいのところ、洩らしてくださるだけでいいので、あなた個人に迷惑のかかるようなことは、絶対にありません」
「おっしゃることは、よくわかるんですけど、どうも、あたしではなさそうだわ。お疑いになるのはそちらのご自由よ」
「あなたがK・Uという女性なら楽だったんだが、そうでないとなると、むずかしい話になる……大池氏が自殺する最後の夜、このロッジで過されたあなたは、いったいどういう方なんです?」
「栂尾ひろ子……プロではありませんが、絵描きの部類です。本籍は和歌山……東京に寄留しています。東京の住所を言いましょうか」
「ご随意に」
「世田※[#小書き片仮名ガ、300−上−5]谷区深沢四十八、若竹荘……ヒネているように見えるでしょうけど、これでまだ二十五です……なにか、ほかに?」
「昨日、はじめて大池氏にお逢いになったということだが、大池氏とはどんな関係なんです」
湖水の風景をスケッチするつもりで、伊東から歩きだしたのだったが、分れ道の近くで雨に逢って困っているところを大池の車に拾われ、ロッジで泊めてもらうことになったという話をした。
「すると、まったくの出合だったんだね」
捜査一課の秀才は面白そうに笑っていたが、
「君は水泳はうまいですか」
と、だしぬけにたずねた。
「余談だけど、泳げばどれくらい泳げる?」
「あたし、和歌山の御坊大浜で生れて、荒波の中で育ったようなものなの……どれくらい泳げるかためしたことはないけど、飽きなければ、いつまででも泳いでいるわ」
「そうだろうと思った。水になじむ身体か、そうでないか、ひと眼でわかる……それで、あそこに乾してある服や下着は、君のものなんだね?」
「ええ、そう。みっともないものを掛けならべて、おはずかしいわ」
「昨日雨に濡れた? 丸山さんの話では、ほんの通り雨だったということだが、下着まで濡れるというのは……」
「雨のせいでなくて、靄のかかった湖の岸を歩いているうちに、朽木の根につまずいて、湖へはまりこんだというわけ」
「靄がかかっていた?……すると、朝の四時ごろのことでしょうが、そんなに早く、なにをしに湖水のそばへ行った?」
自殺するために、湖心へ漕ぎだすボートを探していた、といっても、通じるような話ではない。こんな連中に意想の中のことまでうち明ける気持はなかった。
「散歩よ……あたしたち、どうせ、気まぐれなのよ」
「それに、君の絵はユニークなものらしい。筆を使わずに、指で絵具を塗《なす》る指頭画というのがあるそうだが、君のはその流儀なんだね?」
指頭画……聞いたこともない。
「あたしの絵はそんなむずかしいもんじゃないのよ」
捜査一課の秀才はメモを取っている刑事に命令した。
「そこの絵具箱を、こっちへ……ついでに、シュミーズと運動靴を……」
刑事が言われたものを捜査一課のところへ持って行くと。秀才は笑いながら絵具箱の蓋をあけた。
「湖水の風景をスケッチに来たんだそうだが、このとおり、ブラッシュが一本も入っていない。それで、れいの指で描くやつかと思った……それから、この下着だが、君のものではないらしいね。貧乏だなんていっているが、これはタフタの上物だ。シャンディイのレースがついて、安いものじゃないよ」
大阪行の二等車の化粧室でお着換えしたとき、見かけだけに頼って、下着を変えることを考えなかった。細かいところまで考えぬいたつもりだったが、こんな抜けかたをするようでは、自分の思考もたいしたことはないと、急に気持が沈んできた。
「胸のところに色糸《いろいと》でK・Uという頭文字が刺繍《ぬいとり》してある……君の名は栂尾《とがお》ひろ、当然、H・Tでなければならないわけだ」
顔色が変るのが、自分にもわかった。
宇野久美子は、豊橋と大阪の間で消滅し、栂尾ひろという無機物のような女性が誕生した。久美子のつもりでは、癌腫という残酷な病気を笑ってやる戯れのつもりだったが、抜きさしのならない嘘になって、きびしく跳ねかえって来ようとは、思ってもいなかった。
「この運動靴の底に、エビ藻とフサ藻が、躙《にじ》りつけたようなぐあいになってこびりついている……湖や沼の岸にある淡水藻はアオミドロかカワノリ……エビ藻やフサ藻は、湖水の中心部に近いところに生えているのが普通だ……どうしてこんなものが靴底についたか? 深く沈んで、湖底を蹴りつけたからだとわれわれは考えるので、岸に近いところで落ちこんだという説には、承服しにくいのです。いま誰かつけてあげるから、どこで陥《はま》ったか、その場所をおしえてください」
私服に挟まれて、けさ落ちこんだ湖の岸を探しに行ったが、記憶がおぼろで、たしかにその場所を示すことはできなかった。
一時間ほど後、ひどく疲れてロッジへ帰ると、大池の細君と息子が着いていて、係官となにか小声で話していた。
大池の細君は、久美子がK・Uだと思いこんでいるらしく、こちらへ振返っては、いいしれぬ敵意のこもった眼差で、久美子を睨みすえた。
久美子は煖炉の前の揺椅子に沈みこみ、罪を犯したひとのように首を垂れ、理由のない迫害に耐えていたが、そのうちに、こんなことをしていること自体が、忌々しくて、我慢がならなくなった。
それにしても、なにか、たいへんなところへ陥りこんでしまったらしい。捜査一課の秀才の表現から推すと、自殺干与容疑か、自殺幇助容疑……悪くすると、偽装心中などというむずかしいところに落着くらしい形勢だった。
捜査一課は、いまのところ寛大ぶって笑っているが、いざとなったら、悚《すく》みあがるようなすごい顔を見せるのだろう。どのみち、警察へ持って行かれるのは、まちがいのないところだから、いまのうちに着換えをすましておくほうがいい。
久美子は生乾きのジャンパーや下着を腕の中に抱えとると、着換えをするために、二階の部屋へあがって行った。
死
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