してもということはない。和歌山へ行こうと伊那へ行こうと、それは君の自由だ。呼出しを受けたら、その都度、伊東署へ来てもらえれば」
「すると、結局、ここから動けないということなのね」
 捜査主任は微笑しながらうなずいてみせた。
「そのほうが、どちらのためにも都合がいいだろう、時間の節約にもなるし」
「死体があがるまで、こんなところで待っていなければならないというのは、どういうわけなんでしょう」
「君のためにも待っているほうがよさそうだ。検尿の結果、殺人容疑が、自殺干与容疑ぐらいで軽くすむかもしれないから」
「それは死体が揚れば、のことでしょう?……湖心に吸込孔があって、湖底が稚児※[#小書き片仮名ガ、308−上−1]淵につづいているもんだから、この湖水で死体が揚ったためしがないってことだったけど」
「それは伝説だ……この湖は石灰質の陥没湖じゃないから、吸込孔などあろうはずはない。いぜんは深かったが、関東大震災で底の浅い湖水になった。白髪になるまで待たせはしないから、安心したまえ」
 ちょっとしたことだと思っていたが、どうやら殺人容疑になるらしい。久美子は気分を落ちつけるために、煙草に火をつけた。
「災難ね……あきらめて、死体が一日も早く揚るように祈ることにしましょう。キャンプ村のバンガローへ移りたいんだけど、いいでしょうか」
「バンガロー……いいだろう」
「あたしはK・Uじゃないから、頼まれたって後追い心中なんかしません。その点、ご心配なく」
 捜査主任はアルミの弁当箱をハトロン紙で包みながら、
「腹をたてているようだが、それは君が悪いからだよ」
 と宥めるような調子でいった。
「偽名をつかったり、絵描きでもないのに絵描きだといったり、怪しまれるのは当然だ……君は東洋放送の宇野久美子というひとだろう」
「お調べになったのね」
「それはもう、どうしたって」
「あたしがK・Uでないことは、おわかりになったわけね」
「言ってみたまえ」
「お調べになったことでしょうから、ごぞんじのはずだけど、一月から四月の末まで、どの放送にも出ていました……最近のひと月は、病気でアパートにひき籠っていたし……」
「それで?」
「大池は今年のはじめごろから、K・Uという女性と二人で、日本中を逃げまわっていたということですが、すると、あたしはK・Uであるわけはないでしょう? そんな暇はなかったから」
「その点は諒承したが、さっぱりしないところがある。ここへ来る前日、君は家財道具を伊那へ送っている。郷里の和歌山へ帰るといって、十時何分かの大阪行に乗ったはずの君が、伊豆のこんなところにいる……なぜ、そういう複雑なことをするのか、その辺のところを説明してくれないかぎり、われわれは同情しない……曖昧なことばかりいっていないで、この事件から解放されるように心掛けたらどうだ。不愉快な目に逢うだけでも損だと思うがね」
「和歌山へ行くつもりだったのは事実ですが、人間、気の変ることだってあるでしょう。そんなことでご不審を受けるのは心外よ」
「昨日の午後、川奈へ行く分れ道の近くで、大池の車に拾われたといったが、それは大池の気まぐれだったのか」
「たぶん、ね」
「その辺のところが理解しかねる……今夜にでも自殺しよという切羽詰った境遇にある男が、行きずりに、知らぬ女を拾って、家へ泊めたりするものだろうか? いぜん、なにか関係のあった女なら、話は別だが……」
「なにかの都合でK・Uの代用品のようなものがほしかったんじゃないかしら……K・Uなんて女性、ほんとうに存在するのかどうか知らないけど」
 捜査主任はなにか考えていたが、伏眼になって苦味のある微笑を洩した。
「君はふしぎなことをいうね。捜査二課では、半年がかりで大池とK・Uという女性を追及しているんだが、君はK・Uなんていうものは存在しないという」
「それはそうだろうじゃありませんの。恋文だけがあって、誰も顔を見たことがないなんていう、あやしげな存在、あたし信用しないわ……大池というひとにしたって、ほんとうに自殺したのかどうか、死体を確認するまではわからないことでしょう」
「大池はたしかに自殺したらしい……この先、まだ逃げまわるつもりなら、伊豆の奥の、こんな袋の底のようなところへ入ってくるわけはないから……われわれの見解はそうだが、大池が生きているという事実でもあるのかね」
 そういうのが警察の常識なら、決定的な場で、追及の裏をかく手もあるわけだと、久美子は考えたが、それは言わずにおいた。
 警察から伝達があったのだとみえて、夕方、キャンプ村の管理をしている石倉が機外船で迎いにきた。
「ご苦労さま」
 久美子が乗りこむと、機外船はガソリンの臭気とエンジンの音をまきちらしながら、対岸の船着場のほうへ走りだした。
「結局、バンガローへ
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