も早いほうがいいのだ。
湖水につづく林の中の道から管理人が出てきたのを見るなり、久美子は玄関のテラスから問いかけた。
「どうしたんです?」
実直そうな見かけをした中年の管理人は、テラスの下までやってくると、上眼で久美子の顔色をうかがいながら、低い声でこたえた。
「ちょっとお知らせに……」
「なんでしょう」
「ごぞんじだと思いますが、東洋銀行の事件を担当している捜査二課の神保係長と、捜査一課の加藤刑事部長が、いま伊東署で打ち合せをしているふうなんで……」
自分に関係のあることだと思えないので、久美子は自分でもはっとするような冷淡な口調になった。
「それで?」
管理人は呆気にとられたような表情で、久美子の顔を見ていたが、おしかえすような勢いで、
「十分ほど前、湖水会の事務所へ、間もなくそちらへ行くと、伊東署から連絡がありました」
といい、腕時計に眼を走らせた。
「すぐ車で出たとすれば、だいたいあと七、八分でここに着きます。不意だとお困りになるのではないかと思って、お知らせにあがったようなわけですが」
ひどく持って廻ったようなことをいうが、久美子の聞きたいのはそんなことではなかった。
「大池さん、どうなの?」
管理人は愁い顔になって、
「お気の毒なことですが、いまところ、まだ……明日中に揚ればいいほうで……なにしろ藻が多いですから。エビ藻だの、フサ藻だの……どうしてもいけなけれゃ、潜水夫を入れるしかありませんが、ここには台船なんというものもないので……」
この湖水では死体があがったためしはないと、昨日、大池が言っていたが、それは久美子のほうがよく知っている。
伊豆の古い伝説によると、湖水の湖心に大きな吸込孔があって、湖底が稚児※[#小書き片仮名ガ、295−上−5]淵につづいていることになっている。うまく吸込孔に落ちこむことができれば、地球の終る最後の日まで、みっともない遺体を人目にさらさずにすむ……だからこそ、生存を廃棄するのに、久美子はこの湖をえらんだわけだったが……。
そんなことを考えているうちに、大池の死は過失ではなくて自殺ではなかったのだろうかと、ふとそんな気がした。
「魚を釣るときは、錨をおろすものなんでしょう。大池さんのボートは流れていましたね。あれはどういうわけなの……この湖では流し釣りをするんですか」
管理人は眼を伏せてモジモジしていたが、そのうちにささやくような声でこたえた。
「大池さんは釣りに出られたわけではなかったんです。つまり、その……」
「自殺?」
「はあ、そういうことだったらしいです。この湖で投身自殺するという遺書が、昨夜、おそく東京の御本宅へ届いたそうで、そのことはさきほどもわたしどもへお電話がありました……昨夜から今朝にかけて、自殺を思いとまるように説得してくれと、いくどかお電話くだすったそうですが、生憎、昨日はずっと吉田に居りましたので、なにもかも後の祭りで……御本宅の奥さまとご子息さまが七時三十五分の浜松行にお乗りになったそうですから、十時半ごろにはここへお着きになるでしょう……どうか、そのおつもりで……」
「お心づかい、ありがとう」
「わたしは石倉と申しますが、大池さんにはいろいろとお世話になりましたもので……むこうの管理人事務所に居りますから、ご用がありましたら、声をかけてください。私の出来ることでしたら……」
そういうと、お辞儀をして、あたふたと帰りかけた。
「石倉さん……」
はあ、といって石倉が戻ってきた。
「あなたバンガローの鍵を預っていらっしゃるんだって?」
「鍵?」
「どれでもいいから、ひとつ開けておいてくださらないかしら」
「バンガローは三十ほどありますが、鍵のかかるのは一つもありません。空いてさえいれば、誰でも自由に入れるようになっているので……それで、どうなさろうというんですか」
「ゴタゴタするのはかなわないから、そっちへ移ろうと思うの」
石倉は怒った犬のような眼つきになった。
「気持はわかるが、そうなさらないほうが、お為でしょう」
「お為って、なんのこと?」
「御本宅でも、警察でも、あなたがここにいられることは知っているんですから」
「どうしてなの」
「私がいいました。隠してはおけないことだから……バンガローへ移ってみたって、ゴタゴタするのはおなじでしょう。遠くへ逃げるというのなら、話はべつですが」
「なにか意見がありそうね。伺うわ……あたしにどうしろというんです」
「あなたは、昨夜から、ずうっと大池さんといっしょにいらした……奥さまやご子息さまも、あなたの話を聞きたいところだろう……あなたにしても、それくらいのことをするのが、世間一般の義務ってもんじゃないですか……これから、深いところを錨繩でやってみますが、夕方、手仕舞をしたらロッジへ伺います。
前へ
次へ
全27ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング