ていた。食事も部屋へとりよせて長い楽しい時間をかけて喰べた。葵はとりとめのないことを熱心に喋りつづけ、久我は葵のために小説や詩を読んできかせた。葵はこんな小説の題をみたことがある。……「|花の中の生活《ラ・ヴィ・ダン・レ・フルウル》」。そして彼女はかんがえる。〈その小説のなかには自分と同じように幸福な娘が住んでいるのであろう……〉
 ところが、この楽しい生活に、なに気ない風ですこしずつ翳《かげ》がさしかけてきた。
 着いてから三日目の朝、ボーイが久我に手紙をもってきた。差出人の名がない白い贅沢な封筒だった。葵が受取ってなに気なく鼻にあてると、ほのかにヘリオトロープの匂いがした。
 久我は封をきると、チラリと眼を走らせただけで、そそくさとポケットへおしこんでしまった。なにか妙な気がした。葵が、なんの手紙か、とたずねると、久我は顔をすこし赧らめて、
「公用だ」
 と、それだけいうと、ついと立って、露台のほうへ行ってしまった。あわてて逃げだしたとも思われるのだった。
〈ヘリオトロープの匂いのする公用〉……そんなことがあるべきはずはない。しかし、久我のうろたえかたがあまり際だっていたので、おしかえしても訊けなかった。
 もしかしたら……。それだっていいではないか。この美青年を見てどんな女が愛さずにいられるであろう。仮りに彼のうしろにどれほどの女が横たわっていようと、それは自分にとって関係はない。この現在の真実に自分を愛してくれるなら、彼の過去の経歴などはどうでもいい。まして、自分こそ過去を偽っている。久我をとがめ立てする権利は自分にはない。手紙の主をうちあけてくれぬのはすこし情けないが、それなら、それでもいいのだ……
 しかし、この二三日葵につきまとっている不安というものは、そんなたわいのないことではなかった。いささか奇異な、もっと捕捉しがたいものだった。
 久我はいいようなく優しく、のみならず、ときにはすこし度をこえたようなところさえあるのだった。葵にとってこれが嬉しくないわけはない。が、同時にまた、なにか奇妙な感じも起させるのだった。この優しさは夫が妻にたいするそれでなくて、不幸な人間にたいする憐憫の情にちかいように葵には思われるのである。思いあわせると、いろいろとそんなところが気につくのだった。
 このホテルへついてから、葵を慰めいたわるために、久我はさまざまと骨を折っているようすだった。時にはふだんの慎みも忘れて、ひどく軽い調子でふざけてみせたりした。それが身につかず努力して振舞っていることがありありとみえ透いた。当然触れなければならぬはずの葵の過去についても、ただの一度も触れようとせず、それを故意に避けているようすさえ見えるのだった。そして、われわれの文法に必要なのは、現在形と未来形だけだ、といく度もくりかえしていった。一度は葵も尤もだと思い、二度目も肯いた。しかし三度四度となると、へんな気がしてくるのだった。
 久我がなぜこんなことを口にし、なんのためにこんな振舞をするのか、どうしても葵には了解することが出来なかった。最初は葵が劣性家系の出であることを知って、それをそれとなく慰撫するために、こんな態度をとるのかと思った。しかし、葵と偽名しているこの娘が、じつは大名華族の、和泉家の長女であることを東京で知っているのは彼女自身とむかしの家庭教師、志岐よしえだけである。よしえは東京にはいない。いま失踪中なのである。
〈……すると、もしかしたら久我は、あたしが絲満を殺したと信じているのではないだろうか、と彼女はかんがえる。……久我はそう信じ、いやな思い出を忘れさせようと、いろいろに慰めている……〉
 葵の想像がそこに行きつくと、彼女はなぜかひどく感傷的になって悲哀とも感激ともつかぬ涙をながすのだった。
〈……あたしを東京からひき離して、こんなところへ押し隠すようにしておくのは、すると、あたしを検挙の手から逃避させるためなのだ。台湾へ行くといったのも、じつは公用でなく、あたしをそこまで逃がすつもりだったのだ。こうするためには彼は地位さえも抛つ気かもしれない。もしそうなら、……こんな無益な犠牲と努力をやめさせなくてはならない……〉
 しかし、またもうすこし考えすすめると、必ずしも葵のためにやっているとばかし思われない節もあるのである。
 久我の過去についても、葵はなにも知らなかった。高等刑事だということと、その以前は詩人であったということのほか、ほとんどなにも教えられていなかった。しかも、彼が警察官だとするとその行動はまったく腑に落ちないところがあった。
 東京を出発するときは公用で台湾まで行くといい、途中で上海に変更されたといい、神戸へつくと、すこし重大な事件が起きたからここですこし活動しなくてはならない、という。そのくせ、電報をう
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