したのはあたしなんです。……ふ、ふ、ひとに言っちゃいけませんよ。……うらまれますからな。警察に協力するのは市民の義務でさ。……生意気に! ひとを馬鹿にしやがるから。……ざまあ見ろ、人殺しめ。……では、今晩定刻に……」吸いさしの煙草を、火のついたままポイと廊下に投げだすと、踊るような足どりで、歩いていった。
久我があっけにとられて、そのあとを見おくっていると、また扉があいて、こんどは、西貝が出てきた。ひどくはしゃいだ声で、
「おつぎの番だよ」
と、いった。荒い息づかいをしていた。
巡査が扉から首だけ出して、思いのほか丁寧な声で、久我さん、と呼んだ。
久我がベンチから立ちあがろうとする拍子に、膝から麦稈《むぎわら》帽子が落ちた。どこまでもコロコロと転げていって、はるか向うの壁にぶつかると、乾いた音をたてて、そこでとまった。
久我は、なぜかひどくうろたえて、帽子をとりあげると、よろめくような足どりで戻ってきた。
「おい、久我君、待ってるぞ。記者溜で」
久我は、ちょっとふりかえると、妙に印象に残るような微笑をうかべて肯いた。扉がしまった。
「おお、どうでした、西貝さん」
西貝が記者溜へはいってゆくと、ひどい煙のなかから、いきなり那須がこう声をかけた。三人ばかり立ちあがって、どやどやと西貝のそばによってきた。
西貝はテエブルの上へ腰をかけると、怒ったような口調で、いった。
「小生なんざ、どうでもいいのさ。小生がいろいろと有益な進言をするんだが、まるで聴いちゃいないんだ。……ひとに喋らせて置いて夢中になって古田の聴取書を読んでいるんだ。……そら、あのチャップリン髭の……。なにかまた新しい証拠があがったんだな。……きいたか、那須」
那須は書きかけの原稿を、鞄のなかへ突っこみながら、
「そう。……いろいろやってみると、あいつの行動《シンジョウ》に曖昧なところが出てきたんだ。……〈那覇〉の奴がようやく今日になって言いだした。……そういえば、人殺しのあった前の晩の八時頃、古田が若い女をつれて酒をのみにきた。このほうは、はっきり見たから顔は覚えている。二十二三のいい女だった。……声にきき覚えはないか、と、係がきくと、あまり口数をきかずにつんとすましていたから、どうも、声はよく覚えていないと、いうんだがね。それで……」
「それで、その女は古田のなんだ?」
「それが、窮してるんだよ、古田のいうことは、……小柳橋の袂でその女に逢って、姐さん、一杯いこう、と声をかけたら、イエス、といってついて来た、てんだ。……だが、おおよその捜索方針《スンポウ》はきまったらしい。本庁の意見も一致した。現場の証拠は少《ウス》いが部屋の手のつけかたから見て、初犯の手口だということになった。犯人《ホシ》は、いまのところ女だという予想《ミコミ》なんで、懸命《ガセイ》にその女の行衛《アシドリ》を捜《ヒロ》ってるんだね。……結局」西貝が、ひったくった。
「結局さ、そんなものを追いまわす必要がないんだ。……葵をもっとひっぱたけば、いやでもその女が出てくる。……つまりAはBなり、さ。……しかし、こういう方法論を、あの男がわかるはずはない。……もっとも、あんなうす馬鹿に看破されるような、幼稚な証明の仕方はしなかったろうが、……要するに、生物変化の過程を、あの低能児は、個々の現象としか眺め得なかった。西貝計三は、白髪になっても西貝計三だ、という理窟がわからんのだ。……そんなウンテレガンの証言を捜索の基礎にしてるんだから、こりゃ、いつまでたったって解決する筈がない。……電話の声にしたってそうだ。声の音色なんざ問題じゃない。古田と葵の二人だけが、特別の方法で通知を受けたという点が重大なんだ。……これだけで、二人の間に、なにか共通の劣性因子があることが、充分察しられるじゃないか。うっかり口をすべらしたばっかりに、これがいま、あいつらの弱点になっている。……現にその点で、さかんに共同製作をやってるじゃないか。……片っぽうで、こんな声じゃなかった、といえば、片っぽうじゃ、こんな正直な方はありません、なんて、ぬかす。……おい、那須。……なにしろ、あの女は馬鹿じゃないんだ。しっかりしろよ。よ、名探偵」
「さようそこがトウシローと名探偵のちがいさ。(那須が笑いながら、やりかえす)……葵はね、西貝さん。その、九時って時間には、ちゃンと〈シネラリヤ〉で働いていたんですぜ。しかもひと晩じゅう、葵のそばにへばりついていたのは……、(と、いいながら、となりのモダン・ボーイ風の記者を指して、)なにを隠そう、こいつなんだから話はたしかだ。……こいつはね、一名、ダニ忠といって、女のそばにへばりついたら、雷が鳴ったって離れやしないんだから……それに、あの晩はこいつが……」
べつの一人が、あとをひきとって
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