、乾はのっそりと鶴のほうへ近づいて行った。二人は鶏でも追いこむような恰好に両手をひろげ、左右から鶴をじりじりと壁のほうへ追いつめて行った。
どこかで虫が鳴いている。
だいぶ更けたらしく、あたりはしんとしずまりかえっていた。うす暗い電気の下で、乾とハナがせっせと床をこすっていた。蘇芳《すおう》をまきちらしたようなおびただしい血のあとを、たわしに灰をつけて、ひっそりと洗いつづけるのだった……
ちょうどその頃、葵は監房の窓から秋の夜空を眺めていた。
葵はたったいま調室からかえされたところだった。久我はもう死んでしまった。かくすこともおそれることもない。訊問されるままに、あたしに〈遺産相続〉を通知したのは久我の声でした。と自白した。自分が大名華族の和泉家の長女であることも自発的に申したてた。
久我はもう空にのぼって、あたしを見つめていてくれるのであろう。久我は決して遠いところにいるのではない。永劫のかたちでいまもあたしを抱擁していてくれるのだ。
思えばはかない縁だった。はじめて久我と逢ってからまだ四月にも足らないのに、ひとりはもう空へかえり、ひとりは汚濁《おじょく》雑爼《ざっそ》のなかへのこされた。現世につながる諸情諸因縁はみなこのようにも短かく果ないが、空へかえればそこに玲瓏たる永生が自分を待ちうけていてくれるのであろう。久我のいない世界に執着などのあるべきはずはない。
葵は空に手をのばすと、低い声でいった。
「……待っててちょうだい。いますぐ……」
翌朝、監房監守が点検にゆくと、東側八号室の女は細紐で固く喉をしめて縊死《いし》をとげていた。ちょっと胸にさわって、もう絶命しているのを見てとると、靴音高く混凝土《コンクリート》の廊下を走り去った。
こんな幸福そうな死顔ってあるものだろうか。唇のはしをすこし曲げ、まるで笑いをこらえているようなあどけない顔つきをしていた。のぼりかけた朝日が、その横顔を桃色に染める……
底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−13−27]」三一書房
1970(昭和45)年5月31日第1版刷第1刷発行
1978(昭和53)年1月31日第1版刷第3刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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