ンパッス》へ追いつめてしまったようだ。〈那覇〉の前の空溝のなかから思いがけない手懸りが発見されたのである。浅草馬道の、松村という貸衣裳屋の保証金の受取証で、(金二十円他、薄鼠、クレープドシン、アフタヌン一着、保証金)と書いてあり、その裏に血痕と思われる拇指頭大の丸い褐色の汚点がついていた。クレープドシンか縮緬《ちりめん》をかぶせた釦《ボタン》を、血溜りのなかから拾いあげてこの紙に包んだのにちがいない。釦の丸さなりにはっきりと布目がうつっているのである。鑑識課へ持ちこんで験べて見ると、果してそれは絲満の血だということが判った。
刑事がさっそく馬道へ飛んで行った。松村というのは女給やダンサー専門の貸衣裳屋で、その方面ではかなり有名な店だった。店員の話では、フリのお客で、年齢のころは十八九怒り肩のそばかすだらけなみっともない女で、四寸ぐらいのアフタヌンという註文で、それ位のを二三着出して見せたところ、碌に身体へもあてずに持って行った。なるほどそれ位は着そうな大柄な女でした。バンドつきのワンピースで、背中にとも布の釦が三つついております。衣裳はとうとうかえってまいりませんが、保証金を預ってありますから、手前どもではべつに損害はございませんので……
もうやま[#「やま」に傍点]が見えた。世間を騒がせた絲満事件の真犯人も、この数日中にかならず逮捕されるであろう、と書いてあった。
「いよいよ捕まりそうね。……どんな女かしら。いい迷惑をかけてくれたわ」
久我は本を閉じて、のっそりと机から立ちあがってくると茶碗をひきよせながら、
「衣裳を借りに来たからって、それが犯人だとは限らない。……使いを頼まれるということもあるしね」
そう言って、チラリと葵の顔を見あげた。それはお前がよく知ってるじゃないか、というような眼つきだった。葵の胸が震えた。
「でも、それだってすぐ判るでしょう。四寸を着る女なんかそうザラにいないし、それに釦のこともあるし……」
久我はひどく無感動な顔つきで、
「その位の女は沢山いる。だいいち、君だって四寸着るしね。……それに、君のアフタヌンも背中の釦がひとつとれている」
葵の喉が、ごくりと鳴った。
「これはずっと以前に〈シネラリヤ〉のホールで失くしたのよ。それがどうして?」
「どうしたなんてきいてやしない。これだってひとつの暗合だというんだよ」
頭に血がのぼって、眼のまえが暗くなった。支離滅裂な考えが、ピラピラといくつも頭のなかを走りすぎた。
〈……久我はあたしを愛していたのではない。……この証拠を握るためにあたしと結婚したのだ。……卑劣な刑事根性……〉
握りしめていた茶碗が、思いがけなく葵の手を離れて壁のほうへ飛んでゆき、そこで鋭い音をたてて微塵に砕けた。
卓のむこうに飽気にとられたような久我の顔があった。
葵はその顔を、キッと睨みつけながら、
「そんなにしてまで、あたしを人殺しにしたいんですか。……罠にかけるようなことをして、それを手柄にするつもりなんですか。……卑怯だわ。あなたがそういうなら……」
〈あたしにも言いたいことがある。あたしこそ、あなたが犯人じゃないかと思っている。でもいちどだってそれを口にだしたことがあるか。それなのに、あなたは……〉
耐えがたい孤独感が葵のこころをつよく絞めつけた。卓にうち伏すと、声をあげて泣いた。久我が立ってきて葵の肩へ手を置いた。
「……葵君、君は疲れているんだよ。それで、なんでもないことが癇にさわるんだ。すこし休養しなくては駄目だね。……そういう僕も、つくづくこの稼業がいやになった。このごろはやめることばかり考えている。……(それから葵の顔を覗きこむようにして)どうだ、葵君、二人で山奥へ行く気はないか。……僕の友人が上高地のずっと上で、たくさん牛を飼っている。やってこい、やってこいと、この間からしきりに言ってよこすんだ。山にこそ直接な自然がある。牛や巒気と交わりながら、しばらく悠々とやってみようじゃないか。いまの君にはなによりそういう生活が必要なんだ」
優しそうないい廻しのなかに感じられる冷酷さは、なにか、ぎゅっと胸にこたえた。涙にぬれた顔をあげると思いきって久我の手を払いのけた。
「あたしのためなら、どうぞ放っておいてちょうだい。……いらしたかったら、あなたひとりでいらしていいのよ」
これで、言いたいことをいった、と思った。久我は暗い眼つきをして、葵のそばから身体をひくと、
「……いまは、いろいろに言うまい。……僕は本庁へ行ってくる。……ひとりで、よく考えておいてくれたまえ」
つづいて、イライラと立ちあがると、投げつけるように、いった。
「考えることなんか、なにもありやしないわ。警視庁だろうが、検事局だろうがあたしはもう恐わくはないんです。……いつでも行って
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