なかった。すこし厳格すぎる警察官のひとりに過ぎなかったのである。葵にはすこし放埓にも見えた彼は、じっと銀行ギャング事件の犯人をつかまえるために、目に見えぬ活動をつづけていたのだった。
疑惑のない心の状態とはこんなにも快活なものであろうか。……葵は紗のカーテンをいっぱいにおしあけると、晴ればれとした声で唄いだしてしまった。
雨雲が破れて、そのあいだに新月が黄色く光っていた。久我は、栄町通りでタキシを拾うと、すこしドライブをしたいのだから、どこでもかまわず走ってくれ、と運転手に命じた。自動車はかなり速いスピードで、阪神国道のほうへ走りはじめた。自動車が走りだすと、陽やけした、軍人のような厳い顔をほころばせながら、山瀬が、いった。
「……お目でとう。結婚したそうだね。……それで、お嫁さんはどんなひとか」
「美人だよ。……だが、内面的にすこし暗いところがある。……なにかそういう風にさせるものが過去にあったのだろう。……要するに薄命的な性格なんだね。どうも、そんなものを感じさせる」
「なるほど。……だが、敏腕だったね。逢ってから二十日位で結婚したんだそうじゃないか」
「いや、十五日だよ」
「それはまた素ばやかったな。どんな戦術を用いたんだ」
「逆撃さ」
「それならいつも賛成だ。……われわれの側の戦術だからな。それで、捜査区域はいまどんな風になってるか」
「要するに、……敦賀を頂点にした三角形の内部だ」
「それで、交通哨は?」
「全部に配置している」
「上海への道は?」
「まず、絶対に駄目だ」
「青島は?」
「それも駄目だ。どの通路もみな閉塞している。どんなことをしても逃しっこはない。それで君のほうはどうだった?」
「野外勤務さ。……今日まで白浜温泉にいた」
「それで、これからの作戦は?」
「こんな風に関西へ陣地をしいたら、こんどは東京のほうが手不足だろう。……ひとつ、東京へひきあげるか」
「それがいいだろう。……では、僕も今晩帰還しよう。……それで、東京へ行ってからの行動は?」
「独立射撃さ」
「携帯糧は?」
「いまのところ、大丈夫だ。……(そして、煙草に火をつけると)それはそうと、君は面白い事件に関係したそうだな。絲満事件か。なかなか面白い装飾がついてるじゃないか」
「あの装飾的な部分は面白いのじゃなくて、もっとも危険な部分なんだ。……四人の遺産相続者のなかに乾という老人がいるがね、僕の睨んだところでは、これがいちばん闇黒なんだ。(と、いうと、なんともつかぬ微笑をうかべながら)それから、……その葵という、僕の、……ま、これについてはいずれゆっくり話すが、僕はちょっと手をつけた。だがね、やはり探偵小説は僕の手に合わない。結局得るところはなにもなかった。それで、僕はこれからすぐ……十時二十分で発つが君は?」
「僕はあすの十一時十八分」
山瀬のほうへ手をさし出しながら、久我がいった。
「それでは、僕はここでおりる。もう時間がないから、この辺からちょっとホテルへ電話をかけて仕度をさせておくつもりなんだ」
ちょうど尼ヶ崎のちかくだった。
山瀬は久我の手を握りかえしながら、
「じゃ、また東京で」
「どうか、お大事に」落着いた口調で、山瀬がこたえた。
「大丈夫だ。どんなことでもしてやる。解除の時を待てばいいだけのことだから……じゃ……」
久我は片手をあげて山瀬のタキシに挨拶すると、停留場前の明るい喫茶店へはいっていった。いりちがいに、なかから若い娘がひとり出てきた。窪んだ眼、高い鼻、……典型的なこの南島人の顔は、たしかにどこかで見たことがある。
ようやく思いだした。はじめて〈シネラリヤ〉へ葵をたずねていったとき、そばへよってきて、踊ってちょうだい、といった、あの鮭色のソワレを着た娘だ。それにしても、もうこんなとこまで流れてきているのか。
久我は珈琲を注文すると、すぐ立ちあがって電話室へ入って行った。
電話がかかってきたときは、葵はちょうど風呂からあがったばかりのところだった。用事はほとんどひと言ですんだ。が、受話器をもとへもどすと、葵の顔は突然蒼ざめてしまった。
葵がいまきいた声は、まぎれもなく、最初葵に遺産相続の通知をした〈あの女〉の声だった。葵のこころには、また雲のように疑惑がわき起ってきた。しかし……
〈しかし、……そんなことがあろうはずはない。と、かんがえる。……たったいちどだけきいた(あの女)の声を記憶している筈はない。それなのに、どうして久我の声と似ているなどと思うのだろう。たしかにこれは神経衰弱なのにちがいない〉
それにしても、理窟ではない。久我の声は〈あの女〉の声だ。……葵は立ちあがって、鞄へ入れるために久我の服をそろえはじめる。なに気なくそれを振った拍子に、白い封筒がひとつヒラリと床に落ちた。……差出人の名
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