ひと言もそれには触れなかった。いろいろと考えているうちに、その娘は一月四日以前に殺害されたと信ずるようになった。
一九〇三年に英国で公表された「スウェルドルップの告解」(Confession of Swelldorepp, London)は、北極クングネスト島探検の際、ジョンス湾に残留したフラム号の乗組員十名が、一人の婦人を争って、全滅に瀕した惨劇の記録である。二名は発狂し、他の八名は猛獣のように殺傷しあった。その中に二組の父子がいたのである。争闘ははてしなくつづき、全員、死滅するかと思われた時、ひとりの気丈な船員は、生き残った同僚の命を救うために、ひそかにその婦人を絞殺し、死体を海中へ投げこんでしまった。この秘密は、その後、二十年の間、各自の厳重な緘黙によって保たれていたが、スウェルドルップの臨終の懺悔によって、はじめて明らかにされた。荒凉たる絶海の孤島に住む六人のあらくれ男の中に、ただ一人の若い娘……そのことは、当然、起るべくして起った。どのような光景だったか、想像するに難くない。比喩的な表現を用いれば、六人の男どもは、膃肭獣の島の気質にならって、劇しい争奪の末、無残にも雌をひき裂いてしまった。狭山がそれを口外せぬのは、共同の秘密にたいする仁義をまもっているので、そういうのが、この社会の良心なのである。
では死体はどんな風に始末したのか。すぐ考えつくのは、ボイラーの火室で焼却する方法だが、島の乾燥室にあるのは、横置焔管式のコーニッシュ罐で、簡単な装置で、充分に熱瓦斯を利用するため、水管が焔室の中に下垂し、粉炭を使用するので、焚口は小さく、二重に火格子を持つ特殊な構造になっているので、死体を寸断したとしても、火室で人間を焼却することは不可能である。
また、この島の氷の下は第三紀の岩盤になっているので、氷を穿って始末したかと考えるのは無意義だし、砂浜に埋めれば、解氷期の潮力の作用で、春先になって、ぽっかりと海面に浮かびだす危険がある。要するに、娘の死体は、海中に投げ入れたか、寸断して、海鳥に啄ばましてしまったのだろう。
昼食をするついでに、清水技手の気象日誌によって、結氷の時期を調べてみようと思い、正午ちかく、小屋へ出かけて行った。
狭山は、相変らず陰気なようすで床几にかけ、膃肭獣は、ひだるそうな顔をして寝そべっていた。私はランプの下に気象日誌を持ちだし、克明に頁を繰っていくうちに、十二月廿日の日附の下に、つぎのような記載があるのを発見した。
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十二月廿日、晴天……昨十九日午後五時頃、本島ノ NWN ニ多数ノ漂氷ヲ見シガ、同夜半以来急速ニ発達シテ野氷ヲ形成ス。海岸ヨリ氷堤ノ縁辺マデ約五浬ニ及ベリ。
[#ここで字下げ終わり]
この記載によって私は屍体は海中に投棄されたのではないと断定を下した。娘はたしかに十二月廿七日まで生存していたはずだが、それより一週間前の十二月廿日に、海は五浬の沖まで結氷している。凸凹のはげしい氷原を五浬も屍体を運搬するのは困難な仕事であるばかりでなく、野氷の極限はつねに不正確なもので、表面から見ただけでは、浮遊する群氷と、堅固な野氷との区別がつかない。死体を海中に投棄するには、勢い氷原の極限まで行かなければならないが、自殺するつもりでなければ、実行は覚束ないからである。
私は塩蔵所の岩蔭になにか夥しい白骨が散乱していたことを思いだし、帰途、大廻りしてそこへ行き、胸をとどろかせながら掻きさがして見たが、海象や膃肭獣の骨があるばかりで、人骨などは見あたらなかった。
私は避難所の煖炉のそばに坐りこみ、血のように赤い薔薇の花簪を手のなかで弄びながら、いったい、どういう素性の娘であったろうと考えた。
第七日
午前九時ごろ、ふとした想念が心をかすめ、半睡のうちに微弱な意識でそれを保っていたが、覚醒すると同時に、きわめて明白なかたちになって心の上に定着した。
彼女はこの島に生存しているのではないのか。この島に若い娘がいたとしても、それは彼等の生活の権利内のことであって、格別、隠しだてしなければならぬような性質の事柄ではない。また、その娘を殺害したとしても、死体はたぶん無造作に放置されたであろうということである。
この樺太には(その当時)一人の人間の死を、とやかくと問題にするような神経過敏な風習はない。死はひとつの「措定」であるとして、原因まで詮索しないのである。必要があれば、崖から落ちて死んだとでも、脚気が衝心して死にましたとでも、いいたい放題のとぼけたことをいってすまされるのであるから、横着な彼等が、いかなる理由によっても、死体の湮滅などを企てようはずがない。
ところで、その死体はどこにもない。湮滅さるべき理由がないのに、この島のどこにも死体が見当らぬとすれば、死亡したと考えるより、まだこの島に生存していると考えるほうが妥当である。
感傷的な探検の結果、どこにも彼女がいないということが確実になったが、それにもかかわらず、論理的には、彼女は絶対にこの島に生存していなくてはならぬのである。
彼女はどこにいる? 生存可能の限界を条件とすれば、遮蔽物もない零下二〇―三〇度の凛烈たる大気の中に、持続的に人間が生活し得るはずがないから、どうしても人夫小屋の中でなければならない。しかるに、小屋の中には三個の生物しか住んでいない。私と狭山と膃肭獣である。
論理の必然に従って、この小屋の中に絶対に彼女が生存していなければならぬとすると、この三個の生物のうちのいずれかが彼女でなければならぬことになる。ところで、私はかくいう私で、狭山は依然として狭山以外のものではない。
私はものを思うことに疲れ、長くなったまま眼をとじていたが、なんともいいあらわしがたい率然たる感情に襲われ、急に木箱の上にはね起きた。
この島はなにか不可知な神秘力に支配されていて、ここに来るものは、みな膃肭獣に変形されてしまうのではなかろうかという考えが、なんの前触れもなく、秋の野末の稲妻のように私の脳底にきらめきいり、深い闇に包まれていたもののすがたを、一瞬にして蒼白く照らしだした。
そういえば、狭山は一日ごとに膃肭獣らしくなっていく。顱頂は次第に扁平になり、喉の贅肉は日増しに奇妙なふうに盛りあがってきて、いまはもう頤と胸のけじめをなくしかけている……わずかに、人間のかたちをとどめている手や足も、間もなく、五本の溝のついた、グロテスクな鰭に変形してしまうのだろう。とすれば、あの膃肭獣こそは、彼女のあさましい変容なのだと思うべきである。
幾万という膃肭獣が、毎年、夏になると、なぜこの島にばかり集ってくるのか、その謎をそのとき私ははっきりと解いた。この島の渚で悲し気に咆哮する海獣どもは、この島の呪いによって、生きながら膃肭獣に変えられた不幸な人間どもなのであった。そうして、一日も早く人間に転生しようと、撲殺されるためにはるばる南の海から、この不幸な故郷へやってくるというわけであった。
最初の朝、この島を一瞥するやいなや、救いがたい憂愁の情にとらえられたわけも、これで納得できる。なぜとも知らず、なにに由来する憂愁か、理解することができなかったが、今にして思えば、呪咀にみちた、この島の忌わしい形象《フィジイク》が私の官能に作用し、意識の深いところで逃れられぬ不幸な運命を感じていたのだった。
私は恐怖の念にかきたてられ、窓のそばへ走って行って、薄光りする窓ガラスに顔をうつして見た。
雪花をつけて凍《し》みあがったガラスの面に浮かびあがったのは、まさしく膃肭獣の顔であった。顱頂は平らべったくなり、鼻は顔に溶けこみ、耳はこめかみに貼りつき、唇は耳のほうまで不気味にひきつれている。
「やられた」
私は絶望して土間に坐りこみ、妻や、子供や、親しい友人の名をかわるがわるに呼びながら、声をあげて泣きだした。不思議にも、私の舌は上顎の裏に貼りついたようになり、なにか喋言ろうと焦れば焦るほど、あさましい咆哮になってしまうのだった。
泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまったのだと見える。眼をさますと、もう夕方近くになっていた。
悲しい夢を見ていた。私は月の渚で、美しい一匹の牝と無心に戯れていた。銀の縁《ふち》取りをした黒檀色の波がたえず足もとに寄せてはかえし、湿った海風に海草や馴鹿苔の匂いがほのかにまじっていて、快く睡気をさそった。広い渚に何万とも知れぬ膃肭獣が匍ったり蠢めいたりし、濡れた身体に月の光が反射して発光虫のように燐色に光る。それが交錯して、蒼白い陽炎がゆらめくように見えるのだった。美しい肢態をもった私の愛人は、前鰭でやさしく私を抱えたり、私の胸にすべっこい丸い顔を凭せかけたりした。私は砂浜にはねあげられた銀色の魚を喰べて充ちたりた気持になり、膃肭獣の言葉でながながとしゃべった。
煖炉の火はすっかり消え落ち、部屋の中は薄暗くなっていた。私は起きあがって蝋燭に火をともし、本箱の端に腰をかけて腕組をした。適度の睡気と冷気は過敏な神経をほどよく鎮静してくれ、冷理にかえるにつれて、輪廻説の影響による転生だの転身だのということは、みなとるにも足らぬ妄説にすぎないと考えるようになった。
背嚢から小さな手鏡を出し、蝋燭の灯に近づけて顔をうつして見たが、そこにうつしだされたのは、熱にうかされたような、秀麗とはいいがたい平凡極まるいつもの顔で、昼すぎ、硝子窓にうつったゾッとするような異様な顔は、出来の悪いガラスの歪《ひずみ》や気泡の悪戯なのであった。
なんとしても馬鹿げた話だから、娘のことはもう考えないことにきめたが、そのとき、ふとした示唆がこの謎を解析してくれた。
この島の特質上、石膏末、コロジウム繃帯、縫合針、義眼など、剥製に必要な器具材料が、なにひとつ欠けることなく取揃えられてあり、そして狭山は熟練した剥皮夫である。目測したところでは、膃肭獣の身長は一・四米から一・五米の間であるから、小柄な女なら支障なくその中にひそみ、膃肭獣の皮をつけたままどのような人を馬鹿にした行動でもとり得るのである。
娘は膃肭獣の中にいる。私はうまくしてやられた思いで、
「ちくしょう」と舌打ちをしたが、なんのために娘を膃肭獣の中へなど入れてあるのか、理由を発見するのに苦しんだ。膃肭獣をひっとらえて、事実のところをたしかめて見たく好奇心の荷重で耐えがたいほどになった。決行するには狭山の留守をねらうほかはないが、一日に一回しか機会がない。狭山が薪小屋に薪をとりにゆく時だけだ。
私は扉の前に積んだ木箱や古机を、音のしないようにもとの壁ぎわに移し、鍵をあけ、いつでも飛びだせるように用意した。間もなく、いつものように薪箱に手鈎をひっかけてひきずり出す音がきこえ、裏口の扉がバタンと鳴って、狭山が戸外へ出て行った。私はひきちぎるように土間の扉をあけると、狭山の寝台のそばまで飛んで行った。
膃肭獣は嫋やかな背を見せて丸くなって眠っている。私は首筋を掴んで寝台の下からひきだした。膃肭獣はキョトンと私の顔を眺めていたが、身ぶるいをひとつすると、髯の生えた唇を釣りあげ、牙をむき出して私を寄せつけまいとしたが、委細かまわず背筋をこきおろし、あおのけにひっ繰りかえして腹部をあらためて見たが、どこにも縫合のあとはなく、生温い体温とじっとりとした膏じめりが掌につたわったばかりであった。まぎれもなく、現実の膃肭獣であった。美しいセピア色の密毛の下に感じられるのは、モッタリとした脂肪層と膃肭獣特有の骨格で、鰭を動かすたびにかすかに関節が音をたてた。膃肭獣は鰭をバタバタさせ、私の手から逃れようと藻掻いていたが、口腔の奥まで見えるほど大きな口をあけて威嚇したのち、つと顔をのばして私の手を強く噛んだ。口の中に牡丹の花弁のような赤い舌が見えた。
土間に駆け戻ると、昂奮も焦慮も一挙に醒めはて、途方に暮れたような気持で木箱の上に坐りこんでいた。もとはといえば、土間の花簪と柱暦に巻き込まれていた女の髪の毛から始まったことだった。が、考えて見ればその花簪は
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