にも腫脹がはじまっているのだろう。のろのろと動きまわるのがその証拠だった。
 私は狭山が横着をしているのだと思い、人もなげな緩怠な態度に腹を立てていたが、誤解だったことがわかったので機嫌をなおし、
「貴様、いままでどこにいたのか」とたずねてみた。
 狭山は沈鬱なようすでゆっくりと顔をあげると、唇の端をひきさげて眉の間を緊張させ、頬をピクピク痙攣《ひきつ》らせながら、私の顔を正視したまま、頑固におし黙っている。抑鬱病患者によく見る、癲癇性不機嫌といわれるあの顔である。私はつとめて口調をやわらげて、いろいろと問いを発してみたが、なにをたずねても返事をしない。
 氷と霧にとじられた荒凉寂漠たる島に、長い間たった一人で暮らしていたため、この男は物をいうすべを忘れてしまったのかもしれない。極地で孤独な生活をしていると、次第に構言能力を失うようになるということが、ウイレム・バレンツの報告書に見えている。この島の恐ろしい寂寥のため、抑鬱病か、あるいはそれに近い精神障礙をひき起したのだと思った。
 私はすっかりもてあまし、撫然と狭山の顔を眺めていると、とつぜん狭山は口をあき、海洞に潮がさしこんでくるような妙に響のある声で、いつまでこの島にいるつもりかという意味のことをたずねた。私は、明後日、船が自分を迎えにくるまでこの島にいるとこたえ、愛想のつもりで、
「それだって、どうなるかわかったもんじゃない。船が途中で難船でもしたら、雪解けのころまでここにいるよりしようがないのだからな」というと狭山は瞬かぬ眼でじっとこちらを凝視していた。私のような地位のものが、伴もつれずに一人でこんな島へ残ったということが、なんとしても腑に落ちぬ体《てい》だった。
 一、島の椿事はこんな風にして起った。
 年越しの晩以来、島の一同は乾燥室に入りびたっていた。その日も夕方から酒盛りになり、間もなく酔いつぶれてしまったが、大晦日の晩にはじまって、三ヵ日の間、飲みつづけだったので、みな正体を失い、過熱された乾燥室のボイラーが、徐々に爆発点に達しようとしていることに気のつくものもなかった。
 噴火のようなありさまで、一瞬にして、人間も乾燥室もふっ飛んでしまった。人間どもは火山弾のように空中に投げあげられ、間もなく燃えさかる炎の中に落ちてきた。熱湯で茹られたうえ、念入りにもう一度焼かれたのである。恐らく眼をさます暇などはなかったろう、いわばこのうえもない最後だった。
 猛烈な火は北風に煽られてたちまち隣りの物置に移り、食料品、野菜、猟具、人夫どもの雑多な私有品などを焼きつくしたうえ、剥皮場と看視人小屋に飛火してひと嘗めにし、獣皮塩蔵所を半焼したところで、ようやくおさまった。そのとき風が変ったのである。
 狭山は乾燥室の奥まったところで酔いつぶれていた。爆発と同時に、狭山ももちろん吹き飛ばされた。しかし、このほうは火の中へ落ちずに氷の上に叩きつけられた。ちょっとしたことだが、これがたいへんな違いになった。腰を痛めただけで、命には別条がなかった。狭山自身はなんの自覚もなかった。よほどたってから、ゆっくりと眼をさました。しばらくの間、なにが起ったのか了解する事ができなかった。燃え狂う炎をぼんやりと眺めていたのである。
 一、獣皮塩蔵所の建物は、崖下の雪の中に一種素朴なようすで焼け残っていた。疎らに立ち並んだ五六本の焼棒杭に氷雪がからみついて、樹氷のようにつらつらに光り、立木一本ない不毛の風景に、多少の詩趣をそえるのである。
 五人の屍体は、焼け残った、申し訳ばかりの屋根の下の板壁に寄せ、塩と雪とが半々にまじりあった石のように堅い地べたに枕木のように無造作に投げだしてあった。
 あわれを誘うようなものはなにも無い。どの屍体も極めて滑稽なようすで凝固していた。立膝をしているのもあり、ダンスのステップでも踏んでいるように片足をあげたのもあり、腕組みをして沈思しているようなのもある。いずれも燻製のように燻され、青銅色に薄黒く光っていた。
 地面に落ちたとき、最初に雪に接した部分であろうか、どの屍体にも一ヵ所ずつ焼け残ったところがあって、そこだけが蒼白い蝋のような不気味な色をしていた。どれもこれもおし潰されたような歪んだ顔をし、海鳥に喙ばまれた傷の間から骨が白くのぞきだしている。
 私は狭山の投げやりな処置に腹を立て、
「なぜ穴を掘って埋めんのか。これでは鳥の餌になってしまうじゃないか」と詰《なじ》ると、狭山は自分の腰にさげたアイヌの小刀《マキリ》を示しながら、鶴嘴はみな焼けてしまい、この小刀一梃では、どうすることもできなかったのだとこたえた。
 一、小屋に帰ると、狭山は青磁に黒い斑のはいった海鴉《ロッペン》の卵を煮て喰わせ、じぶんは船から届いた大根や玉葱を生のままで貪り喰った。釣道具も、猟銃も、ひとつ残らず焼けてしまい、この二た月の間、海鴨と卵だけで命をつないでいたのだといった。
 一、八時頃になると、霧の中で雪が降りだし、沖から風が唸ってきてひどい吹雪に変った。島全体を雪の塊にしてしまうような猛烈な吹雪で、風は咆え、呻き、猛り狂い、轟くような波の音がこれに和した。小屋は絶えずミシミシと鳴り、いまにも吹き飛ばされてしまうかと思うほどだった。
 夜半近くなると、風はいよいよはげしくなって行ったが、天地の大叫喚の中で、なんとも形容し難い唸り声をきいた。暴風の怒号の間を縫いながら、地下の霊が悲しみ呻くようなかぼそい声が、途絶えてはつづき途切れてはまた聞こえ、糸を繰りだすように綿々と咽びつづける。得体の知れぬこの声が耳について、とうとう朝までまんじりともすることができなかった。

    第二日

 一、吹雪はやんでいたが、風の勢いはいっこうに衰えない。氷の上を掃きたて、岩の破片と氷屑《セラック》をいっしょくたに吹き飛ばしながら、錯乱したように吹きつづけている。この世の終りのような物凄い※[#「風にょう+炎」、第4水準2−92−35]風《ひょう》だった。
 朝食後、真赤に灼けた煖炉の傍に机をすえて報告書を書き出したが、船のことばかり気にかかって捗らない。この大時化では予定した日に島を離れることなどは望めない。氷と岩のほか、なにひとつ見るものもない荒凉たる孤島で、あてもなく幾日か暮さなければならぬと思うと、漂流者のように暗澹たる気持になり、仕事をつづける気にはなれない。
 一、いつの間にか仮睡をし、眼をさますと夜になっていた。水を飲もうと炊事場の水槽《タンク》のあるほうへ行きかけ、ふと狭山の寝台の下に、茶褐色の犬のようなものが蹲っているのを発見した。しゃがみこんで眺めると、二歳ほどの膃肭獣の牝で、しなやかな背中をこちらへ向け、前鰭で頭を抱えるようにして、おとなしく眠っていた。これが昨夜の唸声の主なのであった。
 どうしてこんなところに膃肭獣がいるのかとたずねると、狭山は、去年の秋、皆にはぐれ、海と反対の追込場の方へはいあがってきたのを捕えて飼っておいたのだが、子供のようになついているとこたえた。寝台の下に手を入れて膃肭獣の背中を軽く叩くと、膃肭獣は眼をさまし、伸びをするようなことをしてから、ヨチヨチと寝台の下から匍いだしてきた。
 しなしなと身体を撓《しな》わせると、屈折につれて天鵞絨のような毛のうえを素早く美しい光沢が走る。胸は思春期の少女のように嬌めかしい豊かな線を描き、手足のみずかきは春の霞のように薄桃色に透けていた。眼はおっとりと柔和に見ひらかれ、どんな動物のそれよりもやさし気だった。
 狭山は可愛くてたまらぬというように、※[#「舌+低のつくり」、第3水準1−90−58]めまわす眼つきで惚れぼれと眺めていたが、異相の大男のどこからこんな声が出るかと思われるような甘ったるい声で、
「花子や、旦那にお辞儀しねえか」といった。膃肭獣はきょとんと狭山の顔を眺めていたが、その意味がわかったのだとみえ、いくども首をあげさげして、お辞儀をするような真似をした。狭山は首を振ったり、クックッと笑ったりしていたが、膃肭獣との愛情を誇示したくなったらしくいろいろな掛声をかけると、膃肭獣は遠いところを眺めるような眼つきをしながら、狭山の肩に凭れかかったり、膝のうえに這いあがったりした。恍《とぼ》けた、愛らしいともいうべきしぐさであるにもかかわらず、なぜか、それが私の心をうった。妙に心に残る情景だった。

    第三日

 一、風は依然として吹きつづけ、来るべき船は来ずに夜になった。
 正午ごろから、膃肭獣はしょんぼりと首を垂れ、元気のないようすをしていたが、夕方近くになると、床の上に腹這いになって、苦しそうに呻きだした。狭山の悲嘆と狼狽ぶりはめざましいばかりで、ありったけの毛布と襤褸で膃肭獣を包み、人間にでもものをいうようにやさしい言葉をかけながら、錯乱したように膃肭獣の背中をさすりつづけていたが、膃肭獣はだんだんに弱って唸声もあげないようになり、呼吸をするたびに背筋が大きく波うち、切なさそうに手足の鰭で床を打った。
 狭山は紫がかった赤い頬に涙を伝わらせ、膃肭獣がするように両手で胸を打って、しゃくりあげて泣いていたが、自由に曲がらぬ足をうしろに突きだし、両手を使って物狂わしく膃肭獣のまわりを匍いだした。しばらくの間、うそうそとよろめきまわっていたが、膃肭獣を腕の中に抱えこむと、突然、甲高い声で笑った。眼は狂暴な色を帯びて異様に輝き、首は発揚性昂奮ではげしく前後左右に揺れている。氷と岩で畳まれた孤島の一軒しかない小屋の中に、私は躁暴狂になりかけている巨人のような男と二人きりでいる。私の境遇はすこぶる危険なものになってきた。
 小屋の外にはこの世の終りのような物凄い朔風が吹き荒れ、零下廿度の凛烈たる寒気が大地を凍りつかしている。ものの十分と立っているわけにはいくまい。結局、躁暴発作の難を避けるには、入口の土間にたてこもるほかないので、狭山を刺激しないように注意を払いながら、寝具と若干の食料をソロソロと土間に運びいれ、扉に鍵をかけたが、それだけでは安心できないので、扉の前に木箱と樽を積み重ねて障壁《バリケード》をつくり、万一のために武器を用意した。武器というのは一本の短艇《ボート》の鉄架《クラッチ》なので、これほど手頼りのない武器もすくない。非力な手に握られた一本のクラッチが、身を護るのにどれほどの力を貸してくれることか、心細いかぎりであった。
 土間の煖炉に火を燃しつけたうえで、不意の闖入に備えるために障壁に凭れて眠ることにした。狭山が無理に扉を押し開けようとすると、樽か木箱の一つが私の頭上に落下してくるはずで、それによって眼をさまし、いちはやく戸外に避難し得る便利があるからである。とはいえ、たとえ小屋をぬけだして島の端まで逃げのびることができたとしても、その末はどうなるのであろう。氷原の上には酷烈な寒気が私を待ちかまえ、その端にはオホーツク海の怒濤が轟くような音をたてて荒れ狂っている。私は鉄架を握りしめ、障壁に凭れて眼を閉じたが、恐怖と憂悶に胸をとざされ、とうとう一睡もすることができなかった。狭山の哄笑と咆哮は、夜明けまでつづいていた。

    第四日

 一、夜のひき明けごろから風が凪いで、島のまわりを海霧が匍い、水の底のようなほの明るい朝になった。
 そのころから狭山の咆哮がきこえなくなり、なにか手荒くガタピシさせる音がひびいてくる。隣の部屋にどんな変化が起ったか知りたく思い、扉に耳をおしつけていると、狭山の重い足音が近づいてき、扉越しに、あなたはそこでなにをしているのかとたずねた。意外にも沈着な体で、声も病的なところがなく、言辞も妥当である。
「貴様が泣いたり咆えたりして、うるさくて眠れないから、ここへ移ったのだ」とこたえると、狭山は、ちぢこまったように詫びてから、あいつが死んでしまうのかと思って悩乱したが、明け方ごろからおさまって、元気になった、という意味のことをくりかえし、飯の仕度ができたから、こっちへ出て来てくれといった。
 狭山がほんとうに正気にかえったのか、中間状態にあるのか、
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