危害を加えるつもりでおびき出そうとしているのか。ものの言い方には、なにか企らんでいるような不自然なところはないが、もし狭山がまだ中間状態にいるのなら、逆らうとかえって悪い結果を招く。勇気を鼓して朝飯を食いに行くことにきめたが、予想のつかぬ将来のために、避難所だけは保有しておかねばならぬと思い、把手《ノップ》を握って、扉を揺すり、
「鍵をなくして、ここから出られないから、戸外をまわって、そちらへ行く」と、うまくいいつくろった。
小屋の横手をまわって裏口から入って行くと、食卓の上には朝食の仕度が出来、膃肭獣は煖炉のそばで毛布の中から顔だけ出し、なにごともなかったようにトホンと天井を見あげていた。狭山もあんな物凄い錯乱をした人間だとは思われぬような落着きかたで、何杯も飯を盛りつけては、ゆっくり喰っていた。
朝食がすむと、私は避難所にひき退ることにし、狭山に、
「向うの部屋で報告書を書くから、うるさくしてはならぬ」といい捨て、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々に裏口から飛びだすと、小屋の裏側に、庇掛《さしかけ》になった薪置場があるのを見つけた。逃避はいつまでつづくかわからず、充分に薪を用意しておく必要があろうと思い、中へ入って薪を抱えとりながら隅のほうを見ると、六足の藁沓が並んでいた。狭山のとおなじもので、三足は棚の上に、三足は地べたに置いてあった。
私は薄暗い避難所へ戻って、なすことなく撫然と煖炉の傍に坐っていたが、狭山と五人の焼死者のほかに、この島に誰かもうひとり人間がいたのではないかという疑いをおこした。何気なく数を読取ってしまったが、たしかに六足の沓があった。藁沓は丈夫なもので、どんな長い冬でも、一足で充分に間にあうから、焼死した人間が五人である以上、藁沓は五足でなければならぬはずである。
さしたる意味もなく、眠りにつくまで、漠然たる疑問を心の隅に持ちつづけた。
第五日
一、正午近くなると、避難所の窓からぼんやりと蒼白い薄陽がさしこんできて、澱んだように暗かった土間の片隅を照らしはじめた。久しぶりに見る陽の光に心をひかれ、陽だまりの方へ眼をやると、なにか嬌めかしいほどの紅い色が強く眼をうった。そばへ行って見ると、それは匂いだすかと思われるばかりの真新しい真紅の薔薇の花|簪《かんざし》であった。
荒凉たる岩山の孤島に真紅の薔薇の花簪とは、あまりにも唐突だが、これは一昨日の朝まで、木箱や樽の雑多な堆積のうしろに落ちていたので、障壁をつくるとき、それらを扉の前に移したため、偶然な事情によって、見得るはずもないものが眼に触れることになったわけである。
眠りにおちるとともに、とりとめのない疑念は消え、もうすっかり忘れていたが、花簪を見るなり、また思いだした。土間の古釘や木片にまじって小さな紙玉がひとつ落ちている。皺をのばして見ると、柱暦からひきちぎった紙で、櫛から拭きとった女の長い髪が十本ほど丸めこまれてあった。柱暦は昨年十二月廿七日の日附であった。
狭山と五人の焼死者のほかに、誰かもうひとり島にいたのではなかろうかという想像は、これで動かすべからざる事実になった。
残留を命じた六人のほかに、もう一人の人間が島にいた。七人目の人間はまだうら若い娘で、少くとも十二月二十七日まで、この島で生活していたのである。
十二月二十七日――
本島とこの島との交通は、昨年、十一月十四日に敷香を出帆した定期船、大成丸を最後に杜絶し、今年、三月八日、私が便乗してきた第二小樽丸で開始された。その間、いかなる汽船も島へ寄航していない。危険な流氷と濃霧のため、この近海へ近づくことが出来ないのである。
絶対に出て行く方法がないのだから、花簪の主はまだこの島に居なければならぬ理窟になるが、われわれの小屋は直接第三紀の岩盤の上に建てられたもので床下などなく、天井は※[#「木+垂」、第3水準1−85−77]木が剥きだしになっていて、下から天井裏を仰ぐことができる。四方の壁は裸の板壁、押入は一つもない。獣皮塩蔵所は焼棒杭の上に屋根の残片が載っているばかり、薪置小屋は屋根を差掛けた吹きぬけの板囲いである。
私は靴にカンジキをとりつけ、小屋の横手についた雪道を辿って上のほうへのぼって行った。
島は西海岸のほうで急な断崖になり、東側はややゆるい勾配で、夏期、膃肭獣の棲息場になる砂浜の方へなだれ、その岸から広漠たる氷原が霧の向うまでつづき、オホーツク海の水がうごめいている。海からあがった霧が巉《ざん》岩に屍衣のようにぼんやりと纒いつき、黄昏のような色をした雪原の上に海鴨が喪章のように点々と散らばっている。悲哀にみちた風景であった。
骨を刺すような冷たい風が肋骨の間を吹きぬけてゆく。蹣跚たる足どりで頂上の小高いところまで行くと、岩
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