し、私は重苦しい霧にとざされた、広漠たる氷原の上にただひとり残された。灰色の無限の空間は、なにひとつ物音もなく、しんとした静寂に充たされ、氷原は波のうねりがそのまま凍りついて、死滅した月の表面のような冷涼たる趣きを呈し、十尋の底まで透けるかと思われるほど透明で、ぞっとするような物凄い緑色をしていた。
私は孤独の感じと闘いながら、漂うように島のほうへ歩きだした。寒気は非常にきびしく、靴はたちまち石のように凍ってしまい、鋭い錐氷に爪先を打ちつけると、飛びあがるほど痛かった。普通の歩き方では一歩も歩まれない。氷の畝から畝へ、飛ぶようにして行くほかはない。爪先を極度に緊張させるので、ふくらはぎが痛み出し、長く歩行をつづけることができなかった。
幾度か転倒しながら進んで行くうちに、また霧が動いて、島の全景が唐突に眼の前に立ちあらわれた。
雲に蔽われた黒い岩山が、断崖をなして陰気に海岸のほうへ垂れさがり、その周りを、雪煙と灰色の霧が陰暗と匍いまわっている。岩と氷と雪がいっしょくたに凍てついてしまった地獄の島。その永劫の静寂の中で、海鴉が断崖の端でゆるい輪をかいている。
一、海岸に面した氷の斜面に足場を刻みながら、一歩一歩上って行くと、中腹の岩蔭に、人夫小屋が頑固な牡蠣殻のようにしがみついていた。入口に雪|囲《がこい》をつけた勘察加《カムチャッカ》風の横長の木造小屋で、雪のうえに煙突と入口の一部だけをあらわし、沈没に瀕した難破船のような憐れなようすをしていた。
入口の土間は、十畳ほどの広さで、薄暗い片隅に、人夫達の合羽や、さまざまな木箱と樽、ペンキの剥げたオールや短艇《ボート》のクラッチなどがごたごたとおいてあった。扉を叩きながら声をかけて見たが、ひっそりとしずまりかえって、返事がないので、形ばかりの押扉を押して部屋に入ってみた。
そこは奥行の深い※[#「木+垂」、第3水準1−85−77]木《たるき》がむきだしになった、がらんとした粗末な部屋で、半ば以上窓が雪に埋まっているので薄暗く、もののかたちが朧気によろめいている。左右の板壁によせて、二段になった蚕棚式の木の寝台が八つほど造り附けになり、はるか奥の突当りに裏口の扉が見える。その右手が炊事場になっているようなので、行って覗きこんでみたが、炊事道具や罐詰の空罐などが乱雑に投げだしてあるばかりで、そこにも人の姿はなかっ
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