くりかえす。そんなわけだから、勢い一人の愛人すら手に入れることのできない不幸な青年が沢山にできあがる。甲斐性のない、ひよわな奴めらは、悲しそうな眼つきで他人の寝室を偸《ぬす》み見ながら、すこし離れた砂浜の隅に集って、しょんぼりとやもめ暮しをすることになる。どうにもならぬ幼牝《ヴァージン》を追いつめて溺死させたり、無闇に魚を喰べちらしたりして、わずかに慰める。そうして、九月の末ごろになると、ほの暗い夜明け、または月のいい晩に、この役たたずめといって、一匹残らず撲殺夫に撲り殺されてしまうのである。銀座を散歩なされる夫人や令嬢の外套についている膃肭獣の毛皮は、もっぱら、この不幸な青年たちのかたみなのである。
 明治三十八年、この特異な島が日本のものになると、猟獲を禁じ、樺太庁では、年々、この島に監視員を送って膃肭獣を保護していたが、四十四年に日米露間で条約(一九一一年の「膃肭獣保護条約」のこと)を締結する見通しがあったので、条約締結と同時に猟獲を開始することにし、同年夏、大工と土工を送り、膃肭獣計算櫓、看視所、剥皮場、獣皮塩蔵所、乾燥室などの急造にとりかかったが、航路の杜絶する、十一月下旬になっても、完成を見るにいたらない。翌年(大正元年)五月の開所式に間にあわせるため、やむなく各二名ずつの大工、土工と、一名の剥皮夫を残留越冬させて仕事を継続させることにし、監督に清水という水産技手をあたらせた。
 当時、私は樺太庁農林部水産課の技師で、膃肭獣猟獲事業の主任の地位にあり、五月八日の開所式に先立ち、諸設備の完成を見届けるため、部下の技手を一名従え、三月上旬、その年最初の郵便船に便乗し、泛氷《はんひょう》の危険をおかして海豹島に赴くことになった。開所式には、米露の技術員も来臨するわけで、見苦しからぬよう諸般の整備をしておく必要があったのである。

 海豹島滞留日誌

    第一日
 一、三月八日、大泊《おおとまり》港を出帆した第二小樽丸は、翌々十日、午前十時ごろ、海豹島の西海岸、四浬ほどの沖合に到着した。
 風が変って海霧が流れ、雲とも煙ともつかぬ灰色の混濁の間から、雪を頂いた、生気《せいき》のない陰鬱な島の輪郭がぼんやりとあらわれだしてきた。しかし、それも束の間のことで、瘴気のような不気味な霧がまた朦朧と島の周りを立ち迷いはじめ、あたかも人間の眼に触れるのを厭うように、急速
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