ところあっしの罪。手こそくださないが阿波屋の六人はあっしが殺したも同然。……そう思うと、あっしはもういても立っても。……どうか、お察しなすってくださいまし」
屋根裏
深川の油堀《あぶらぼり》。
裏川岸にそってズッと油蔵が建ちならんでいる。壁の破れにペンペン草が生え、蔵に寄せて積みあげた油壺や油甕のあいだで蟋蟀が鳴いている。昼でもひと気のない妙に陰気な川岸。
もう暮れかけて、ときどきサーッと時雨《しぐ》れてくる。むこう岸はボーッと雨に煙り、折からいっぱいの上潮で、柳の枝の先がずっぷり水に浸《つ》かり、手長蝦だの舟虫がピチャピチャと川面《かわも》で跳ねる。……ちょうど逢魔ガとき。
油蔵の庇あわいになった薄暗い狭いところを通って行くと、古びた黒板塀に行きあたった。
清五郎は裏木戸の桟に手をかけながら、
「ここから入ります。……母家《おもや》はお通夜でごった返して離家には誰もいないはずですが、それだと言ったって、だんまりで座敷へ踏みこむわけにもゆきません。屋根の破風《はふ》の下見《したみ》をすこしばかり毀しますから、窮屈でもどうかそこからお入りなすってください」
泉水の縁をまわって離家に行きつくと、横手においてあった梯子を起し、身軽にスラスラと昇ってゆく。さすが馴れたもので切妻《きりづま》の破風の下に人がひとり入れるだけの隙間をこしらえ、ふたりを手招きしてからゴソゴソと穴の中へ入って行ってしまった。
乗りかかった船で、アコ長ととど助のふたりが苦笑しながらその後から天井裏へ這いこむ。
屋根の野地板《のじいた》の裏がわが合掌なりに左右に垂れさがり、梁や化粧※[#「木+垂」、第3水準1−85−77]《けしょうたるき》が骨格のように組みあったのへ夥しい蜘蛛の巣がからみついている。
糸蝋燭の光がとどくところだけはぼんやりと明るいが、それもせいぜい二三|間《げん》。前もうしろもまっ暗闇。埃くさい臭《にお》いがムッと鼻を衝く。
天井板を踏み破らぬように用心しながら進んで行くと、先に立っていた清五郎が急に足をとめ、なにか指しながら二人のほうへ振りかえった。
指されたところを見ると、なるほど、六寸ばかりの守宮が胴のまんなかを五寸釘でぶっ通されたまま死にもせずにヒクヒクと動いている。
油を塗ったようなドキッとした背を微妙にうねらせて急に飛びあがるような恰好をするかと思うと、すぐまた死んだように動かなくなってしまう。なにをしているのかと蝋燭あかりを寄せて見ると、両手の中になかば死にかけた囮《おとり》の大きな盲蜘蛛《めくらぐも》をかかえこみ、その匂いを慕ってあつまって来る小蜘蛛を片っぱしからパクッパクッと嚥みこんでいるのだった。
とど助はゾックリとした顔つきで、
「これはどうも凄まじい。こうして三年も生きていたんですか。いや、これほどまでとは思いまっせんでした。なるほど、この執念なら祟りもしましょう」
アコ長はなにかに熱中したときの癖で、眉のあいだに深い竪皺をよせながら糸蝋燭の灯で守宮をためつすがめつして眺めていたが、唐突に清五郎のほうへ振りかえると、圧しつけるような低い声で、
「この離家が建上ったのはいつだと言ったかね」
「三年前の五月でございます」
「お前が屋根裏へあがったのはいつだった」
「今年の二月でございます」
「すると、守宮がここへ釘づけになってからちょうど二年と四カ月たっているわけだな」
「さようでございます、そんなかんじょうになります」
「それにしてはチト妙だな」
「なにがでございますか」
顎十郎は、守宮の胴中を突っ通している五寸釘をさしながら、
「二年以上もここに突き刺さっていたにしては、まるっきり釘の錆び方がちがう。……守宮の身に近いところはともかく、釘の頭のほうはもっと錆が浮いていなければならないはずなのに、見ろ、この通りまっ新《さら》だ」
清五郎は釘に眼をよせて眺めていたが、たまげたような声で、
「なるほど、こりゃあケブだ。三年前の釘がこう新しいはずはありません」
「一年どころか、遅くてせいぜい二十日。ことによればまだ四、五日しかたっていない。……妙なのは釘ばかりじゃない。……清五郎、よくこの虫を見ろ。お前は守宮だといったが、これはこのへんの堀にいる赤腹《あかはら》だ。守宮なら無花果《いちじく》の葉のような手肢《てあし》をしているが、これにはちゃんと指趾《ゆび》がある。ここに釘づけになっているのは守宮でなくて蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》だ。……そんなに遠くでへっぴり腰をしていないで、近くへ寄ってよく見ろ」
清五郎は首を差しのべておずおずと眺めてから、
「いかにも、こりゃア赤腹」
アコ長はニヤリと笑いながらとど助のほうへ振りかえり、
「とど助さん、少々妙ですな。……ご承知の通り、守宮なら灯に集ってくる虫を喰うために檐下や壁を這いまわりますが、蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]のほうは、もともと水の中にいる虫。せいぜい川岸の草のあるところぐらいしかあがって来ぬものです」
とど助は眼玉を剥いて、
「すると、どいつかワザワザこんなところへ蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]を釘づけしに来たものがあると見えますな」
「まず、そのへんのところ」
と言って、天井板の上にうっすらたまっている埃を指さし、
「ごらんなさい、その証拠はここにあります」
とど助と清五郎が差しつけられた明りの下を見ると、埃の上に足袋はだしの足跡がひとつ残っている。
「大工ともあろう清五郎が足袋はだしなどで屋根裏へ上るなんてえことはない。言うまでもなく、これは別な人間の足跡です」
と言って、清五郎に、
「おれたちが入って来たほかに、天井裏へあがる口があるか」
「常式どおり、広座敷の押しこみの天井板が三枚ばかり浮かしてありますから、這いこむとすればそこなんでございましょう」
「離家にはいま誰が寝起きしているんだ」
「肥前の松浦様のご浪人で新田数負《にったかずえ》という若いおさむらいがこの春から寝泊りしております。父親というひとは蘭医で、阿蘭陀の草木にくわしい人だそうで、新田というひとも離家で朝から晩まで本ばかり読んでおります」
「それはなんだ、阿波屋の親戚でもあるのか」
「いいえ、縁引きのなんのじゃありません、早い話が居候《いそうろう》。……話はちょっと時代めくンですが、今年の春、阿波屋の末娘のお節さんが、五人ばかりの踊り朋輩といっしょに向島へ花見に行った帰り道、悪旗本にからまれて困っているところへその浪人者が中へ入り、ひょっとするといやな怪我でもしかねなかったところを助けられたそのお礼、いずれ仕官するまでという気の長い約束でズルズルいすわっているわけなんです」
アコ長はなにか考えこんでいたが、また唐突に口をひらき、
「清五郎、お前、その浪人者に守宮の話をしたろうな」
「へい。なにしろ、その浪人者が離家へ居候するということですから、あっしもなんとなく気がとがめまして……」
「それは阿波屋で人死が出る以前のことだろうな」
「さようでございます。その浪人者が離家へいつくようになってからひと月ほどたった後。……なんでも八十八夜のすぐあとのことでした」
「総領の甚之助が死んだのはいつだっけな」
「……五月の二十日。……それから二十日ばかりたってから後のことです」
「……で、ありようをすっかり話したのか」
清五郎はあわてて手を振って、
「飛んでもございません。ここに寝るとみな魘されるというが、離家の天井になにかさわりがあるんじゃなかろうかと、ま、そんなふうに、ぼんやり話しただけだったんでございます」
顎十郎は蜘蛛の巣だらけの梁に腰をかけてうっそりと腕組みをしていたが、なにか思いきめたふうで、
「おい、清五郎、ちょっと甚松の死骸を検べて見たいから、神田へ行って大急ぎでひょろ松を呼んで来てくれ」
「へ、そうですか。よろしゅうございます、大駈けで行ってまいります」
油壺
雨があがって、薄雲のあいだで新月が光っている。
油蔵の庇あわいへかがみこんだ五人。
アコ長、とど助、ひょろ松、清五郎。それに御用医者の山崎椿庵《やまざきちんあん》。
アコ長はチラとあたりを見まわしてから、低い声で、
「どうだ、ひょろ松、甚松の死体をなんと見た」
「大熱が出たということや、手足の節々の腫れかたなどを見るに、傷寒《しょうかん》か破傷風。……この前の四人を見ていませんからはっきりしたことも言えませんが、どうもそのへんのところかと思われます。……椿庵先生、あなたのお診断は?」
「いったんは、虎列剌《ころり》かとも思いましたが、嘔吐《はい》たものは虎列剌とはまったくちがう。胸や背に赤斑こそありますが、虎列剌の特徴になっておる形容の枯槁《ここう》もなければ痴呆面《こけづら》もしていない。それに、これが虎列剌なら阿波屋一軒ですむはずがない」
アコ長はせっかちに遮《さえぎ》って、
「なるほど。……すると、ギリギリのところどういうことになるんです」
「手前の診断では、まず毒。……それも、なにかはなはだ珍奇な、たとえば、蘭毒のようなものでも盛られたのではないかと……。もちろん、これは手前の推察で確言いたすわけではないが」
顎十郎は、手のひらで長い顔をべろんと撫でおろし、
「向島の花見で助けたのが新田数負。助けられたのが末娘のお節。……次々に妙な死に方をしたのは男のほうは総領から四男まで。女のほうは姉娘とおふくろ。生き残っているのは父親と居候的《いそてき》の新田と末娘のお節の三人。……ところで、数負の親父は蘭方医で和蘭の本草学にくわしいということになれば、阿波屋の事件はもう答えが出たようなもんだ。……どうだ、ひょろ松、それともお前のほうになにかかくべつの見こみでもあるのか」
「こう筋が通ったうえで、べつな思いつきなどあろうはずはありません。……いつぞやの堺屋騒動のときも、ちょうどこんなふうにうまく出来すぎていて、ついひっかかって失敗《しくじ》りましたが、こんどは大丈夫、金《かね》の脇差《わきざし》」
会心らしくニヤリと笑って、
「過ぎたるは及ばず、ってあまりうまく段取りをつけすぎるから、けっきょく露見してしまう。悪いことというのはなりにくいものとみえます」
ひょろ松が感懐めいたことを言っていると、黒板塀の裏木戸のほうを眺めていたとど助が、なにを見たのか、おやッと声をあげた。
「あれをごらんなさい、なにか妙な歩き方をしておる」
四人があけはなしになった裏木戸のほうを眺めると、いま噂になっていた新田数負が、泉水の縁にそって、薄月の光に照らされながらヒョロヒョロと離家のほうへ歩いて行く。
男にしてはすこし色が白すぎる難はあるが、いかにも聡明そうな立派な顔立ちで、黒羽二重の薄袷《うすあすわせ》を着流しにしたいいようす。
それはいいが、歩きっぷりがすこぶる妙なので。酔歩|蹣跚《まんさん》といったぐあいに肩から先に前のめりになってヨロヨロと二三歩泳ぎだすかと思うと、とつぜん立ちどまってはげしく大息をつき、両手で胸のあたりを掻きむしるような真似をして、またヒョロヒョロと歩きだす。
「酔ってるのでしょうか」
「うむ、酔ったにしては、妙な歩きっぷりだな」
五人が肩を重ねるようにして眺めていると、数負は急に眼でも見えなくなったように、泉水の端から離家と反対のほうの竹藪のほうへよろけて行き、トバ口の太い孟宗竹にえらい勢いで身体を打ちつけたと思うと、仰むけざまにドッと倒れてそのまま動かなくなってしまった。
「どうしたんだ、ともかく行って見よう」
アコ長を先にして泉水の縁をまわりこんで数負のそばまで駈けて行く。かがみこんで顔を見ると、土気色になってもう命の瀬戸ぎわ。
よほど苦しかったと見えて、顔がグイとひきゆがみ、片眼だけ大きく明けてジッと空を睨んでいる。
「おッ、これはいけねえ」
椿庵は数負の着物の胸もとを寛げ、気ぜわしくあちらこちらと検べていたが、アコ長のほうへ顔をねじむけ、
「ごらんなさい、赤痣
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