というわけには行かん。実は、昨日からなにも食っていねえので、このままじゃア駕籠を持ちあげることさえ出来やしない。ともかく、二人に飯を食わせてからのことにしてくれ」
「こりゃア驚いた、それもわたしが払うんで」
「まあ、そうだ」
「乗りかかった駕籠だ。もう、観念しまっせ」
二人のうしろに喰いついて、ひょろ松が渋しぶ立場へ入ると、アコ長ととど助は落着いたもので、芋豆腐《いもどうふ》を肴にいっぱい飲《や》りだした。
ひょろ松は、あわてて、
「こりゃア、どうも弱った。そうゆっくり腰をすえられちゃア困ります。なにしろ、あっしは大急ぎなンで……」
とど助は、気にもかけぬふうで、
「まあ、まア、そう急ぐことはない。これから府中までは七里半の道。じゅうぶんに兵糧《ひょうろう》を入れておかんことには早駈けすることが出来ん。兵には糧、駕籠屋には酒。ちゃんと兵法の書にも書いてある。あんたもあわてずドシコと飯でもつめこんでおきまっせ」
銀簪《ぎんかんざし》
ようやく腰をあげたのが、正午《ひる》すぎの八ツごろ。
アコ長もとど助も空っ腹にむやみに飲んだもんだからへべれけのよろよろ。一歩は高く一歩は低くというぐあいに、甲州街道を代田橋から松原のほうへヒョロリヒョロリとやって行く。
駕籠の中のひょろ松は大|時化《しけ》にあった伝馬船のよう。駕籠が揺れるたびに、つんのめったりひっくりかえったり、芋の子でも洗うような七転八倒《しってんばっとう》。
座蒲団なんてえものもなく、荒削りの松板に直《ぢか》に坐っている上にあっちこっちにぶっつけるもんだから頭じゅう瘤《こぶ》だらけ。
ひょろ松は、情ない声で、
「もしもし、お二人さん。なんとかも少しお急ぎくださるわけにはまいりますまいか。このぶんじゃ府中へつくと夜があけてしまいます」
アコ長は、膠《にべ》もなく、
「まア、あわてるな。どうせ一本道。ブラブラやって行くうちに、いずれは府中へつく。……それはそうと、ひょろ松、いったい、どんな用むきで府中へなどすっ飛んで行くのだ。ひとつ眠けざましに聞かせたらどうだ。おもしろい話なら久しぶりに、ひと口のってやってもいい」
ひょろ松は、えッ、とおどろいて、
「それは、ほんとうですか」
「馬鹿な念をおさなくともいい。なんとなく気がはずんできたでな、そんなことでも、してみたくなった。まア話してみろ。どんなことなんだ」
ひょろ松は、無闇によろこんで、
「こりゃアどうも、ありがたいことになった。駕籠に乗せられた上に、助けてまでくださろうというんじゃアあまり話がうますぎる。これでブツブツ言っちゃ罰があたります」
「やはり、御用の筋なのか」
「へえ、そうなんでございます。わっしは、さっきから相談を持ちかけたくてムズムズしていたんですが、御用の話をするとあなたは嫌な顔をなさるから、それで我慢していたンです。……では、これからお話しますが、もうすこし駕籠が揺れないようになんとかなりませんものでしょうか。舌を噛みきりそうで危くてしょうがない」
「よしよし、この調子ではどうだな」
「結構でございます。すみませんねえ。……実はね、こういうわけなんでございます。府中で手びろく物産廻送《ぶっさんかいそう》をやっている近江屋《おうみや》鉄五郎というのがあります。それにお源というのとお沢というのと齢ごろになる娘が二人いて、先年、姉娘のお源に婿をとることになり、やはり同業の青梅屋《おうめや》の三男坊で新七というのがきまった。どちらがわの親類にも異存がなく、七日ほど前に結納《ゆいのう》をとりかわしたのですが、ところで、大国魂神社の神主《かんぬし》、猿渡平間《さわたりひらま》の甥で、桜場清六《さくらばせいろく》という勤番くずれ。大酒呑みの暴れ者で、府中じゅうの鼻っつまみになっているやつなんですが、こいつが以前からお源に横恋慕をしていて、うぬぼれっ気のあるやつだからてっきり自分が近江屋の婿になれるもンだとひとり合点できめていた」
「ちょっと、おめえに似たようなところがあるな」
「まぜっ返しちゃいけません。……もっとも、桜場のほうでもそううぬぼれていいようなわけがある。というのは、ご存じでもありましょうが、府中の暗闇祭というのは、御神輿の渡御《とぎょ》するあいだ、府中の町じゅうひとつの灯火もないようにまっ暗にしてしまう。もったいない話ですが、年々一度のこの大祭がみだらな娘や若い者の目あてなんで、おたがいに顔が知れずにすむところから真暗三宝《まっくらさんぽう》に乳くりあうという風儀の悪いお祭なんです。お源もその例にもれず行きあたりばったりにちょっと悪戯《わるさ》をしたんですが、運悪くその相手が桜場清六。……こいつはいま言ったようにすれっからしの道楽者で、そんなほうには抜け目のないやつだから、手さぐ
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