のところ。丼《どんぶり》へ入れた銭の重量《おもみ》で前へのめくりそうでしょうがないから、こうやって駕籠につかまっているところなんです」
「今日はそもそもなんたる日でありましたろう。おたがい、なにもこうまでして稼ぐ気はないのだが、ついはずみがついて駈けずりまわりましたが、駕籠屋をして蔵を建てるなんてえのも外聞が悪い。気味が悪いからこんな銭すてっちまいましょうか」
「それは、ともかく、こんなところでマゴマゴしていると、また客にとっつかまる。この間《ま》に提灯を消して急いで逃げ出しましょう」
「それがようごわす」
提灯を吹消して空駕籠をかつぐと、ほうほうの体で逃げだす。
かれこれもう九ツ半。頬かむりをしてスタスタ札《ふだ》の辻《つじ》までやって来ると、いきなり暗闇から、
「おい、ちょいと待ちな、どこへ行く」
紺木綿のパッチに目明草履。ヌッと出て来て、駕籠の前後にひとりずつ。
「おお、駕籠屋か、面を見せろ」
月あかりがあるのに、いきなり袂龕灯《たもとがんどう》で照しつける。
「どうぞ、ご存分に」
「やかましい。どこへ帰る」
「神田まで帰ります」
「神田のどこだ」
「佐久間町でございます」
「駕籠宿か」
「いいえ、そうじゃございません、自前《じまえ》でございます」
「なにを言いやがる、自前という面じゃねえ。家主の名はなんという」
「気障野目明《きざのめあか》しと申します」
「あてつけか、勝手にしやがれ。肩を見せろ」
「どうぞ、ご存分に」
「やかましい、黙っていろと言うに」
いきなり絆纒の肩を引きぬがせて、ちょいと指でさわり、
「新米だな」
「申訳けありません」
「うるせえ。……よし、もう行け」
四国町《しこくまち》まで来ると、二丁目の角で、ちょいと待ちな、どこへ行く。
芝園橋《しばぞのばし》で一度、御成門《おなりもん》で一度、田村町《たむらちょう》で一度、日比谷の角で一度。ちょいと待ちな、どこへ行く。
さすがの阿古長とど助、クタクタになって、
「もういけません。この調子では佐久間町まで行くうちに夜が明けてしまう。いい後は悪いというのは本当ですね、阿古長さん。この様子で見ると、江戸一円になにか大捕物があるのだと思われますが、こうと知ったら、もう少し早く切りあげるンでした」
「捕物だかなんだか知りませんが、いちいち関《かま》いきっているわけには行かない。こんど止め
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