る》の鶴、錆田《さびた》の雀は子をかばう。いわんや、鯨は魚の長。愛情の深さはまたなかなか。……さて、皆々さま、これなるは、突《つき》鯨の寄《より》鯨の流《ながれ》鯨のとそんな有りふれた鯨ではござりませぬ。奥州は仙台金華山港町というところに住む漁師の茂松という方、去る月の十二日に沖に漁にまいりましたところ、波のあいだになにやら黝《くろ》いものが見えますゆえ、なんであろうと舷を寄せ、仔細にこれを眺めますれば、それは生れたばかりの鯨の子。珍らしきものよと拾いとり、さて、船を返そうといたしますれば、たちまち後のかたにあがる鯨の潮。母なる鯨が浮かびあがり、小さなる眼に涙を泛かべ、その子返してと追うて来る。茂松どのは哀れをもよおし、いったんは返そうと思いましたなれど、長々つづく浦の不漁。鯨一頭しとめれば七浦七崎《ななうらななさき》にぎおうの譬え。心を鬼にして船をば急がせますならば、母なる鯨は舷に添い、己が身の危うさも忘れどこまでもどこまでもついて来る。そのうちに船は港に入り、よもやと思うて見かえるなれば母なる鯨はもう半狂乱。漁船とともに腹を砂浜にのしあげ、子を返して賜わらぬならば、いっそひと思いにこの身も殺してくれといわんばかり、折よく通りかかりました当小屋の六兵衛どの、哀れと思い買いとりて母子もろとも江戸へ連れかえり、かくはご高覧に供しまする次第。まずは右のため口上。東西。……いよいよこれより鯨の潮ふき、母鯨が添乳《そえち》のさま、つぶさにご覧に入れますところなれど、しょせん田舎生れの鯨ゆえ、江戸の繁華に胆をつぶし、ただもうぐったりしているばかり。それはまた改めてお越しの日にゆずり、ご座興までに鯨のひと声、鯨と言えば、あいよ、と答える。さあ太夫さん、しっかりお頼み申しますよ」
と、扇子で鯨の頭を突きながら、
「……鯨ちゃんや」
と、声をかけると、よっぽど遠いところで、あいよ、と答える。
口上つかいが静々と鯨の背中からおりて行くと、さっき言ったように鯨節の総踊り。これで、おあとと入替え。
ところで、この鯨が一夜のうちに紛失してしまった。
鯨の昇天
深草六兵衛の小屋では、その夜は当祝《あたりいわい》。
追出しをすましてから、櫓主《やぐらぬし》、若太夫《わかたゆう》、帳元《ちょうもと》、奥役《おくやく》、道具方一統から踊子、口上役、ぜんぶ櫓裏の二階へあつまって
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