た吉兵衛が、よくまア素直《すなお》にこんなものを書いたもンだと、藤五郎が言うと、おもんは、となりへ仲働きに行くでは、どうせすったもんだでこんなものを書くわけはないから、『大清』の藤五郎さんのところへ後添《のちぞ》いに行くつもりだから、きっぱりと縁を切ってくれと言いますと、吉兵衛は、しばらくわたしの顔を眺めていましたが、お前はどうせ島育ち、死ぬまで野暮ったく暮せるはずはない。いずれそんなことになるのだろうと覚悟していた。『大清』ならば、いわば水に芦《あし》。これが紙問屋へ行くの呉服屋へ行くのと言うんなら決して承知はしないが、水商売ならお前の性にあう。いかにも承知してやろう。それにつけても、お前の持病は癪。調子にのってあまり無理にからだはつかわないように気をつけるがいいと、大変なわかりよう。もっとも、あんな気の弱い男だから、そのくらいのことしか言えるはずはないンですが、女房から別れ話を持ちだされて、こんなメソメソしたことしか言えないのかと思うと、あんまりな意気地のなさに無性に腹が立って、なることなら突きとばしてやりたいような気がしました。『大清』も、あまり馬鹿々々しいので笑い出し、世の中にはずいぶん尻腰《しっこし》のない男もあるもんだ、と言った。
『大清』は三年前に女房をなくしたが、忙しいにまぎれて不自由なことも忘れていたが、おもんの言葉で味な気になり、とうとう瓢箪から駒が出ておもんを後添いにしてしまった。
この経緯《いきさつ》がパッと町内にひろがったので吉兵衛はいい物笑い。裏どなりの担《かつ》ぎ呉服の長十郎というのが、ひとごとながら腹をたてて、風呂でひょっくりあった時に、お前は阿呆だとばかし思っていたが、女房を寝とられてそんなふうに落着いていられるところなんざアこりゃア大した器量人《きりょうじん》だ、と皮肉を言うと、吉兵衛は、妙な含み笑いをして、俺が落着いていられるのには訳があるンだ。『大清』が奥山にいるときの悪事のしっぽを俺ににぎられているンだから、きいたふうの真似をしても、その実、生涯、俺に頭のあがりっこはねえんだ。それに、おもんだってどんなつもりで進んで『大清』の後添いになったか、その裏の事情がお前なんぞにわかるはずはねえ。なにも知りもしねえくせにきいたふうのことを言うと口が風邪をひくぜ、気をつけろい、と、いつにない巻舌でやり返したということだった。
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