やはり天保の改革で、深川|辰巳《たつみ》の岡場所が取りはらわれることになり、深川を追われた茶屋、料理屋、船宿などが川を渡ったこちら岸の柳橋にドッと移って来て、にわかに近所に家が建てこむようになった。
吉兵衛のとなりへ越して来たのは『大清』の藤五郎という男で、もとは浅草奥山の興行師。それまでは深川仲町で小料理屋をやっていたが、そのあいだにだいぶ溜めこんだと見え、ご改革を機会に京屋のとなりの長野屋という旅籠屋《はたごや》を買いとり、その地面へ総檜《そうひのき》二階建のたいそうもない普請をし、茶屋風呂の元祖深川の『平清』の真似をして贅沢な風呂場をこしらえて湯治場料理屋をはじめた。
台所には石室をつくり、魚河岸から生きた魚を、雑魚場《ざこば》から小魚を仕入れてここへ活《い》かしておく。酒は新川《しんかわ》の鹿島《かしま》や雷門前《かみなりもんまえ》の四方《よも》から取り、椀は宗哲《そうてつ》の真塗《しんぬ》り、向付《むこうづ》けは唐津《からつ》の片口《かたくち》といったふうな凝り方なので、辰巳ふうの新鮮な小魚料理とともに通人の評判になって馬鹿馬鹿しいような繁昌のしかた。夕方の七ツ半にはもう売り切れになるという有様なので、建てたばかりのやつをまた建増ししなければならなくなった。
ところが『大清』の南は濠《ほり》で建増そうにもひろげようにもどうすることも出来ない。そこで、眼をつけたのが北どなりの京屋の地面。ここを買いつぶしてひろげると、こっちは角店になるわけで、いっそう店の格がつく。
商売もあんまり繁昌していないふうだし、大したいざこざを言わずに承知するだろうと多寡をくくって話を持ちかけて見ると、それが案外の強腰《つよごし》で、いくら金を積んでもこの地面は譲られぬという挨拶。
坪二両に立退料三百両というところまで競《せ》りあげたが、それでも頭を竪《たて》には振らない。
気の小さなくせに偏屈なところがあって、商売がうまくゆかないせいもあろうが、家内のおもんにもめったに笑い顔も見せない。陰気な顔をして一日じゅう藍甕《あいがめ》のまわりでうろうろしている。
こちらは火が消えたようになっているのに引きかえ、となりは豪勢な繁昌ぶり、これが癇にさわるので、うんと言わないのは、ひとつはそのせいもある。
『大清』の藤五郎のほうでは、いよいよ金ずくではいけないと見てとると、こんどは
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