「そういったものではありません。軍略は武士のたしなみ。こういうのを泥鰌鯰の戦法とでも言うのでしょうか」
「はッはッは、まアそんなところでしょう。……これで、腹もくちくなったし、身体も煖まった。では、そろそろ戻ることにいたそうかな」
 また、空駕籠をかついで、いいご機嫌のふたり、空ッ風もなんのその、鼻唄を歌いながらだらだらの狸穴坂《まみあなざか》を森元町《もりもとちょう》のほうへ降りかける。
 熊野神社《くまのじんじゃ》のそばまで来ると、暗闇の中から、五音《ごいん》をはずした妙なふくみ声で、
「もしもし、駕籠屋さん……」

   たぬき旦那

 片側は櫟《くぬぎ》林で、片側は土手。熊笹《くまざさ》が風にゆらいでいるばかり。闇をすかして見たが、人影など見えない。
 アコ長は怪訝《けげん》な顔で、
「ねえ、とど助さん、今、たしかに、駕籠屋さんと言ったようだったが」
「わしも、そう聞いた」
「でも、人ッ子ひとりいやしません」
「いかにも、誰もおらンな。妙な晩だの」
「あまり乗せたい乗せたいと思ってるもンだから、気のせいでそんなふうに聞えたのでしょう」
「大きに、そんなところだろう」
 行きかか
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