来のせつは、なにとぞ、西側の裏木戸から。これは、押せばひらくようになっております。いささか仔細がござって、一切お出むかいはいたしませんから、泉水について、飛石づたいにどんどんお進みになると、その奥に数寄屋ふうな離れ座敷がありますから、委細《いさい》かまわずそのまま縁からおあがりなさって、差しおきました緋色繻珍《ひいろしゅちん》の褥《しとね》に御着座になり、脇息《きょうそく》に肘などをおつきなされ、尊大なる御様子にて半刻ほどお待ちねがいます。御無聊のこともあろうと存じ、いささか酒肴の仕度をいたしてございます。横柄《おうへい》なるお声で、おいおいと、ひと声、ふた声お呼びくだされば、打てば響くというふうに、腰元どもなり、あるいはまた、三太夫とも申すべき奴らがたちどころに立現れまして、いかなる御用命にも即座にお応《こた》えするようになっておりますから、なんなりと鷹揚《おうよう》にお申しつけくださいますよう。なおなお、少々心得もございますから、この手紙の余白に、御意のほどをひと筆|御染筆《ごせんぴつ》、使いの者に御手交くださらば有難く存じます。余は、御拝眉の上、万々申しあげたく、まずは、右のため、云々。というのが手紙のおもむき。差出人は、稲葉能登守《いなばのとのかみ》のお留守居《るすい》、溝口雅之進《みぞぐちまさのしん》。
「……稲葉能登守といえば、豊後《ぶんご》の臼杵《うすき》で五万二千石。外様《とざま》大名のうちでもそうとうな大藩だが、この雅之進というやつは、よほど洒落れた男だと思われる。高位の人命にかかわる事態などと言っておきながら、文脈の中に、綽《しゃく》々たる余裕をしめしている。人を馬鹿にしたようなところもある。よほどの大人物か、さもなければ浮世を茶にしたとぼけた人体《にんてい》に相違ない。……脇息もございますから、それに肘などをおつきになって、尊大な御様子でお待ちくだされたく、なんてえのは、いかにも人を喰ったものだ。奔放な気宇がうかがわれて、なんともいえぬような味がある」
ボッテリした、顎化けの化け[#「化け」に傍点]の所以《ゆえん》であるところの、人間ばなれのした馬鹿長い顎をふりながら、ひとりで悦に入って、
「それにしても、緋色繻珍の褥の上におさまって、横柄な声で、おいおい、というと、酒肴の好尚《このみ》は望みのまま、打てば響くといった工合に、なんなりと御下命
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