門の曽孫で、界隈きっての旧家。ひょろ松が、溝川《どぶがわ》の中を藁馬をひきずりまわしていたころには、さんざ世話をかけた叔父さん。
 白髪の、いかにも世話ずきらしい気の好さそうな顔をしているが、なにか心配ごとがあると見え、久濶《きゅうかつ》の挨拶も、とかく沈みがちである。
 ひょろ松は、眼聡《めざと》く眼をつけて、
「お見うけするところ、いちいち、ためいきまじり。……今夜、わざわざおいでくだすったのは、なにか、この松五郎に頼みでもあってのことではございませんでしたか」
 又右衛門は、憂《やつ》れ顔でうなずき、
「いかにも、その通り。……じつは、一月ほど前から、家内に、なんとも解《げ》しかねる奇妙なことが起き、このまま捨ておいては、たったひとりの娘のいのちにもかかわろうという大難儀で、わしも、はやもう、悩乱《のうらん》して、どうしよう分別《ふんべつ》も湧いて来ぬ。その仔細というのは……」
 又右衛門の連れあいは、四年ほど前に時疫《じやみ》で死に、いまは親ひとり子ひとりの家内。
 奥むきのことは、お年という気のきいた女中が万事ひとりで取りしきり、表むきは、作平という下男頭が、小作人の束ねから田地の上りの采領まで、なにくれとなく豆々しくやってのけ、立つ波風もなく、一家むつまじく暮らしていたが、この年の春、娘のお小夜が、気にいりのお年をつれて水上堤《みなかみづつみ》へ摘草に行ったとき、とつぜん、石垣のあいだからニョロニョロと一匹の山棟蛇《やまかがし》が這いだした。
 江戸の生れで、下町で育ったお年という女中は、長虫《ながむし》ときたら、もう、ひとたまりもない。かばうはずのやつが、お小夜の背中にくいついてまっ青になって慄えている始末。
 お小夜は、切羽《せっぱ》つまって、追いはらうつもりで無我夢中にひろって投げた石が、まともに蛇の頭へあたり、尾で草をうちながら蓬《よもぎ》のあいだをのたうちまわっていたが、間もなく、白い不気味な腹を上へむけて、それっきり動かなくなってしまった。
 見ると、頭が柘榴を割ったようにはじけ、グズグズになった創口からどろりと血が流れだしてまっ赤に草を染めている。
 ふたりは、ひきつけそうになって、這うようにして家まで逃げ帰ったが、その晩からお小夜は大熱、
「あれ、あれ、欄間に蛇が、蛇が……」
 ほかのものの眼には見えないが、お小夜にだけはありありと見える
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