、日進堂も腹をかかえながら、
「濡れ仏、とは、うまいことを言ったもんだ……額からしずくをたらしながら、そうして目玉をむいて突っ立っているところなんざ、牛込|浄源寺《じょうげんじ》の弥勒仏《みろくぶつ》そっくり。……これが、江戸一の開化人だとは、とても、信じられぬくらいだ」
と、ひやかすと、佐原屋清五郎は、なんのせいかひどく赤らんだ額のしずくを、手のひらでぬぐいながら、
「その馬鹿《イジオット》なところを、ちょいとお目にかけようと思って、こうしてここに突っ立っているのさ。……いやはや、急々如律令《きゅうきゅうにょりつれい》……山谷《さんや》を漕ぎだすと、いきなり、ドッと横ッ吹きの大土砂降《おおどしゃぶ》り。……大川のド真中だから、今さら引っかえすわけにもゆかず、板子をひっかぶってしのいでいたが、とうとう下帯までグッショリになってしまった。それにしても、濡れ仏とは縁起でもないことを言いなさる」
ひどく上機嫌にしゃべり立てるのを、長崎屋は、手でおさえるようにしながら、
「いくら夏の雨でも、そんなことをしていては、からだに障る……ひと風呂あびて、浴衣にも着かえていらっしゃい。……いま、湯殿へ案内させますから……」
佐原屋は、ひょうきんに顔を顰《しか》めて、
「雨水が咽喉へはいって気色が悪くていけねえ。……風呂へ入る前に、葡萄酒《ワイン》を一杯いただこうか」
と、言いながら、絨毯を踏んで座敷のほうへ入りかけようとした途端、ドツと吹きこんで来た川風に、蝋燭の灯があおられてフッフッと次々に吹き消え、部屋の中がまっ暗になった。
「おッ、これはいけない」
「灯《あか》し、灯し……」
口々に騒いでいるうちに、闇の中で、ううむ、と奇妙な唸り声がきこえだした。
「そこで唸っているのは佐原屋さんか? まるで縊《し》め殺されるような声を出すじゃないか」
「佐原屋さん、子供でもあるまいし、つまらない真似はおよしなさい」
「ほんとに、気味の悪い声だぜ」
そうしているうちに、長崎屋が、地袋の棚から早附木《マッチ》をさぐり出してきて蝋燭の火をともす。
「やれやれ、やっと明るくなった」
で、広《ひろ》座敷の入口のほうをふりかえって見ると、控《ひかえ》座敷と広座敷のちょうどあいだくらいのところで、佐原屋が俯伏せになって倒れている。
「おッ!」
「これは!」
口々に叫びながら、おどろいて、五
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