奴もある。八丈島《はっちょう》、三宅島《みやけ》まではわずか四五日の船路《ふなじ》ですが、物騒でなかなか油断が出来ない」
「なるほど。……それで南と北の与力同心は品川沖の親船までおくって行くのか」
「いいえ、そうじゃありません。御浜なり永代橋なりで艀舟へ乗せると、奉行所の手をはなれて御船手役人の手に移るンです」
「よしよし、よくわかった。だいぶ話が面白くなってきたようだ。……まあ、軍鶏でも突つきながら話すことにしよう」
両国広小路の『坊主軍鶏』。ほどのいい小座敷をたのんで軍鶏をあつらえる。
顎十郎は、盃をとりあげてのんびりと口に含みながら、
「なあ、ひょろ松、十五日に島送りになった七人の中に、えらい盗人がいたそうだな」
「へえ、伏鐘《ふせがね》の重三郎といいましてね、上総姉崎《かずさあねがさき》の漁師《りょうし》の伜で、十七のとき、中山の法華経寺へ押入り、和尚をおどしつけて八百両の金をゆすり取ったのを手はじめに、嘉永四年の六月には佐竹の御金蔵《ごきんぞう》をやぶって六千両。安政元年には長崎会所《ながさきかいしょ》から送られた運上金《うんじょうきん》、馬つきできたやつを十人の送り同心もろとも箱根の宮城野ですりかえて一万二千両。……このへんは序《じょ》の口《くち》で、まだまだ後があるンですが、そういうふうに息をひそめていて二年目ぐらいずつにどえらい大きな仕事をする。乾児《こぶん》にまたいっぷう変ったやつがいて、中でもおもだったのは毛抜《けぬき》の音《おと》、阿弥陀《あみだ》の六蔵、駿河《するが》の為《ため》の三人。一日に四十里《しじゅうり》歩くとか、毛抜で海老錠《えびじょう》をはずすとか不思議な芸を持ったやつばかり。手下のかずも五十人はくだるまいというンですが、どうして伏鐘というかというと、まだ若いころ芝の青松寺《せいしょうじ》の鐘楼《しょうろう》の竜頭《りゅうず》がこわれて鐘が落ちたことがある。そのとき重三郎はつれられて行ったやつに、おれは伏鐘の中に入って、お前がポンと手をうつうちに抜けだして見せる。見事ぬけだしたらおれに拾両よこすかと言った。そんなことは出来るわけのもンじゃないが、見事やったらいかにも拾両だそう、で、重三郎を伏鐘の中へ入れ、ポンと手をうつと、そのとたん、重三郎はそいつのうしろに立っていて、おれは、ここにいるよと言ってニヤリと笑ったという、そういう
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