う」
「なにをでございます」
「強情だの。……それそれ、へたにとぼけたお前の顔に、頼まれて来た、と書いてある。……おれの口から頼みます願いますでは、天下の与力筆頭の沽券《こけん》にかかわる。……あの通り、口いやしいやつだから、酒でもたらふく飲ませ、喰いものをあてがって、うまく騙《だま》してなんとか智慧をかりてくれ。酔わせせえすりゃ、いい気になって、なんでもペラペラ喋るやつだ。……どうだ、ひょろ松」
「まったく、その通り……」
つい、うっかり口走って、へへへと髷節《まげぶし》へ手をやり、
「てめえで言ってしまっちゃアしょうがねえ。いままで、なんのために苦労をしたんだかわかりゃアしない……こいつア、大しくじり」
「はなっから、間のぬけた話だ。……下戸のお前が、柳橋へ行こうの、屋根舟にしようのと、水をむけるからしてあんまり智慧がなさすぎる。……ふふふ、まア、そうしょげるな。これでも、おれは気がいいからの、むげに、お前の顔をつぶすようなまねはしない。とりもちにめんじて、ある智慧なら貸してやる」
ひょろ松、ピョコリと頭をさげ、
「さすがは、阿古十郎さん」
顎十郎は、船舷《ふなべり》へだらしなく頬杖をついて、
「おだてるな。……それで、今度はどんなことだ」
へえ、といって、急に顔をひきしめ、
「それがどうも、すこし、桁外《けたはず》れな話なんで。……あなたは、ひちくどいことはお嫌いだから、手っとりばやくもうしますが……じつは、このごろ御府内で、妙なことがはじまっているんでございます」
顎十郎、のんびりとした声で、
「ふむ、妙とは、どう妙」
「それが、どうも、捕えどころのねえ話なんで……。どうしたものか、この月はなっから江戸の市中が水を打ったようにひっそりと静まりかえっているんでございます。……どんなことがあったって、日に十や二十はかかしたことのねえ小犯行《こわり》が、これでもう十日ほどのあいだ、ただのひとつもございません。……掏摸《とうべえ》もなければ、ゆすり、空巣狙《しろたび》、万引《にざえもん》、詐欺《あんま》……なにひとつない。御番所も詰所も、まるっきし御用がなくなって、鮒が餌づきをするように、あくびばかりしているんでございます」
「なるほど、そりゃあ珍だの」
ひょろ松はうなずいて、
「江戸中の悪いやつらが、ひとり残らず時疫《じやみ》にでもかかって死に絶えてし
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