叟侯《かんそうこう》ならこのくらいのことはなさりかねない。……お前らも知ってるだろう。斎藤派無念流の斎藤弥九郎《さいとうやくろう》、……閑叟侯が手に品をかえてせっせとお遣物《つかわしもの》をおくって、ようやくお抱えになるところまで漕ぎつけたところを、紀州さまが横あいからだんまりでさらってしまわれたことがある。……つまり、こんどはその仕返しをなさったのだ」
 と言って、日ざしを眺め、
「おお、もう辰刻《いつつ》か。あまりゆっくりかまえてもいられねえ。おれは、これからむこうへ乗りこんで行って、じゅうぶんに調べあげ、くわしく復命書《おこたえがき》をつくっておくから、朝太郎、お前、夜ふけになったら、御用部屋の窓下へ受けとりに来い。そして、夜があけたらすぐに池田さまのお屋敷におとどけするんだ、いいか。……それから、千太、おめえは加役のお役宅へ行ってそれとなくわけを話し、おれが朝の辰刻《いつつどき》になっても帰らなかったら、組頭に様子を見させによこしてくれ。……気の荒い佐賀っぽうの領地へ乗りこんで行くんだ。どうせ無事じゃアすむめえ」

   駕籠盗人《かごぬすびと》

「ねえ、組役《くみやく》、あ、あまり部屋で、見かけねえ顔だが、いままで、ど、どこにいらしたんで……」
「あっしは西の丸の新組におりやした。……へっへ、ちっとばかりしくじりをやらかしましてね。ま、よろしくお引きまわしをねげえますよ。……さア、もうひとつ」
「す、すみませんねえ。……ひッ、……もう、じゅうぶんに頂戴いたしましたよ。……ひッ、……いけねえ、そうついだって飲めません」
「なにも、そう遠慮なさることアねえ、顔つなぎだ。……もうひとつ、威勢よくやってくんねえ」
 琴平町《ことひらちょう》の天神横丁《てんじんよこちょう》。油障子に瓢箪と駒をかいて、鉄拐屋《てつかいや》と読ませる居酒屋。
 ぐずぐずになって、いまにもつぶれそうに身体を泳がしているのは薄あばたのあるお徒士《かち》か門番かというようすの男。酒をついでいるのが、藤波友衛。
 中剃《なかぞり》をひろくあけたつっこみにゆい、陸尺半纒にひやめし草履。どう見ても腹っからのお陸尺。
「ねえ、お門番。きのう、ご代参があったようだが、ありゃ、いってえ、いくつ出たんで」
「ご代参って、どちらのご代参」
「ご代参なら、大塚の本伝寺にきまってる」
「ひッ、……よく知ってら
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