礼をとらねばならぬかご存じないわけはない。それを知りつつ、主家の名前だけは、骨が舎利《しゃり》になっても口外しまいという忠義一徹。なりもふりもかまわず、礼儀も捨てて押しとおそうとなさるお心ざしには、まことに感服いたしました。手前といたしましては、あなたのひし隠しにしていらっしゃることを知りながら、洒落や冗談でつつきだしたわけじゃない。……そうまで覚悟をきめて主家の名をひし隠しにしようとなさるからは、こりゃあよくよくの大変。たぶん十二万五千石がフイになるかどうかというきわどい瀬戸ぎわなんだと思います。……お先くぐりをするようですが、つまり、私にその難場《なんば》をなんとかしてくれといわれる」
「はい、いかにもその通り」
「して見りゃア、どうせそこへふれなきゃ筋がとおらない話。と、そう思いましたから、手っとり早く行くように、私のほうから切りだして見たまでのこと。……私はお目付でもなければ、老中でもない。……入りくんだ内幕《うちまく》を聞いたって、ひとに洩らす気づかいはない。また、それほどの酔狂でもありません。あなたの朴訥《ぼくとつ》さに惚れましたから、どんなことか知りませんが、私のおよぶことなら、根かぎりお力ぞえいたしますから、どうか、肩のしこりをとって、ありったけのことをすっかりぶちまけてください」
このそっけない男が、いったいどうしたというのか、きょうに限って、いやに親身なことをいう。ふだんを知っているひとが聞いたら、さぞおかしかろう。石口十兵衛は、まっとうに受け、この日ごろの労苦のせいか、ひどく落ちくぼんだ老いの目に、にわかに涙をみなぎらせながら、
「これが始めての御面識。唐突に推参いたしましたのみならず、重ねがさねの御無礼。年がいもなく、さまざまと狼狽《うろた》えたさまをお目にかけましたにもかかわらず、お笑いもなく、お咎めもなく、およぶかぎり御加勢くださるとのお言葉、ありがたいとも、かたじけないとも、申そうにも早や……」
あとは涙声になって、そのままさしうつむく。さすがに大藩の家老たるだけあって、はた目にもそれと察しられる見識、器量。それが、あさましいまでに取りみだし、露地奥の貧乏長屋の古畳の上に両手をついて、肩をふるわせながら咽《むせ》び泣いているさまは、いかにも哀れぶかい。
石口十兵衛は、やがて顔をあげ、
「仔細は次の通り。……先君、利与《としよし》さまにはただひとりの御嫡子があって、源次郎さまと申しあげますが、御三歳の春、利与さまがみまかられましたので、直ちに相続を願いいで、翌年春、喪があけますと同時に、相続祈願のため、さきの家老|相馬志津之助《そうましづのすけ》、伝役《もりやく》桑原萩之進《くわばらはぎのしん》、医者|菊川露斎《きくかわろさい》の三人がつきそい、矢田北口《やたきたぐち》というところにある産土《うぶすな》さまへ御参詣になりましたが、お神楽の太鼓におおどろきになったものか、かえりの駕籠の中で二度三度と失気《しっき》なされるので、やむなく途中の百姓家に駕籠をとめ、離れ家におともない申し、いろいろご介抱もうしあげましたところ、ようやくのことで御正気。軽い驚風《きょうふう》ということで、その後は恙《つつが》なく御成育になり、元服と同時に、相違なく家督相続さしゆるされるむね、お達しがあり、家中一同恐悦に存じておりました。その後、家老相馬志津之助と医者露斎があいついで死亡いたし、よって不肖《ふしょう》わたくしが家老の職につき、御養育に専念いたしておりましたところ、この春ごろから慮外《りょがい》な風説を耳にいたすようになりました」
「ほほう、それは」
「……と申しますのは、御嫡子源次郎さまは二年前の春、産土さまの帰途、百姓家の離れで、失気したままご死亡になり、古河十二万五千石の廃絶をおそれるまま、先の家老志津之助が、伝役《もりやく》萩之進らとかたらって、たまたま通りあわした野伏乞食《のぶせりこつじき》の子が源次郎さまに生写《いきうつ》しなのをさいわい、金をあたえて買いとり、偽の主君をつくりあげ、なにくわぬ顔で帰城したのだという取沙汰《とりざた》。……もとより根もない風説ではございますが、捨ておきかねることにてございますによって、さまざま手をつくして噂の出所をとりしらべましたところ、矢田の百姓で仁左衛門《にざえもん》と申すものの口から出たということ。……ところで、この仁左衛門も、先年すでに死亡いたしたという埓もない話」
「なるほど」
「ところが、先君利与さまの外戚《がいせき》、御内室《ごないしつ》の甥御にあたられる北条数馬《ほうじょうかずま》どの、源次郎さまを廃して、おのれが十二万五千石の家督をとりたき下ごころがあり、伯父上|土井美濃守《どいみののかみ》と結托して、御老中などへの運動もさまざまなさる趣《おもむ》
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