たぶん、ご存じじゃなかろうと思いますが、なにしろ相手は溶けりゃ形なしになる厄介なしろもの。……毎年の例で、こいつが西の丸の御車寄へかっきり四ツ半(午前十一時)につくのがきまりなんで。……と、言いますのは、お上《かみ》は九ツ(正午)の昼御飯で、お膳をひくと、すぐその後でお氷をおあがりになるんで、この時刻はどんなことがあっても外されない。……ですから、お氷が四ツ半きっちりに御車寄へつくにはなん刻《どき》に氷室を出して、なん刻に駕籠へのせ、門を出るのがなん刻、壱岐殿坂をくだりきるのがなん刻と、お送り役と氷見役立ちあいで袂時計《たもとどけい》を持ってお駕籠の早さを割りつけ、大袈裟にいや、氷室から西の丸の御車寄まで何千何百歩と、きっちりときまっているくらいなものなんです」
「いやはや、たいへんな威勢のもんだな」
「まったく……軍談よみの『戦記』を聞くと、武者押しというのは、一鼓三足《いっこさんそく》といって、歩度《ほど》の間尺《ましゃく》がきまっているもんだそうですが、お氷献上の駕籠ゆきは、添役《そえやく》が袂時計を見ながら、ホイと掛声をかけると、サッサ、サッサと四歩でる。……去年、壱岐殿坂のおり口で二百歩目でにらんだ傍示杭《ぼうじぐい》は、今年もおなじ二百歩目でにらみつけようというわけなんで……。あっしと為が、毎年、お氷の駕籠をつって行くんですが、この駕籠かきだけは二人でなくちゃ勤まらねえ。……まあ、そういったようなものなんです」
「おもしろいの」
「……ところで、その日、お氷が氷室を出たのは、お添役の袂時計で十|字《じ》五|分《ふん》……御正門を出たのが十字十分……壱岐殿坂を下りきって二十五分……水道橋をわたりきって三十分……神保町かどが三十五分……三番原口から一ツ橋かかりが四十五分。ところで、ここで、ひょんなことが起きちまった……」
「どうした」
「……いま、一ツ橋御門へ入ろうとすると、いきなり門内からむさんに飛びだして来たやつがあって、闇雲《やみくも》に駕籠の曳扉《ひきど》のあたりにえらい勢いで体あたりをくれた……」
「ほほう」
「……人間ひとりが乗っているなら、ひとの重さがありますから体あたりぐらいでひっくり返るなんてえこたあねえんですが、なにしろ、中身はごく軽いんだから駕籠は宙に浮いている。……そこへ、いきなり、えらい勢いで突っかけられたんで、あっしと為は、はずみ
前へ 次へ
全20ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング