うなことだ。このぶんでは、どうやら、こんどもまた、あいつの負だな。……さあ、もういい、おれはこれから松平佐渡の部屋へ帰るから。……いずれまた、そのうち……」
 あっけにとられているひょろ松をそこへ残して、ノソノソと長屋門を出ていった。

   二番原《にばんはら》

 朝のうちは霜柱《しもばしら》が立つが、陽がのぼると相変らず春のようないい陽気。河岸ッぷちの空地の草の上に陽炎《かげろう》がゆらめく。
 神田、鎌倉河岸から雉子橋《きじばし》ぎわまで、ずっと火除地《ひよけち》で、二番原から四番原までのひろい空地は子供たちのいい凧あげ場になっている。
 神田川をへだてたむこうが、一ツ橋さまの屋敷で、塀の松の上、紺青色《こんじょういろ》に深みわたった空のなかに、ものの百ばかりも、さまざまな凧が浮かんでいる。
 十二三を頭に七つ八つぐらいなのが小百人、駈けまわったり、からみあったり、夢中になって遊んでいる子供たちにまじって、土手ッぷちの草むらで凧をあげている顎十郎。
 垢じんだ素袷を前さがりに着、凧の糸のはしを帯前にむすびつけ、懐手の大あぐら。衿もとから手さきだけ出して長い顎のはしをつまみながら、高くあがった烏凧をトホンと見あげてござる。
 顎十郎のからす凧は、黒い翼をそらせ、青い青い空の高みで、ちょうど生きた烏のようにゆっくりと身をゆすっている。
 五角、軍配、奴、切抜き……極彩色《ごくさいしき》の凧ばかりのなかで、黒一色の顎十郎のからす凧がひどく目立つ。
 黒塗の上へ湿気《しっけ》どめにうすく明礬《どうさ》をひいてあるので、陽の光をうけて傾くたびに、ギラリと銀色に光る。
 小川町《おがわまち》の紙凧《たこ》屋、凧八で十文で買ったからす凧。けさ早くから二番原へやってきて、夢中になって凧あげをしている。
 鬢の毛を風にほおけ立たせ、だいぶご機嫌のていで、空を見あげながらニヤついているところへ、通りかかったのが、れいのひょろ松。
 呉服橋うちの北町奉行所から、神田の自分のすまいへ帰るちょうど道順。
 いつもの癖で、セカセカと前のめりになりながら、二番原へはいって来た。
 フイと足をとめて、顎十郎のうしろ姿を眺めていたが、まぎれもないとわかると、呆れかえったという顔で近づいてきて、
「阿古十郎さん、……あなたは、まあ、いったい、なにをしていらっしゃるんです」
 顎十郎は、ゆっくりと振りかえって、
「おう、ひょろ松か……」
「ひょろ松か、も、ないもんです。……なにをしているんですってば」
「なにをって、見たらわかるだろう、凧をあげている」
 ひょろ松は、ふくれッ面をして、
「あなたのようなのんきな人を見たことがない。……いよいよ南と北のあいがかり、火の出るような鍔《つば》ぜりあいになってるというのに、こんなところで凧あげなんかしているひとがありますか! 呆れかえってものが言えやしない」
「すっかり病みつきになってな。……ひょろ松、おもしろいからお前もやって見ろ」
「ちッ、凧どころの騒ぎですか。……南では、藤波が金座のお蔵方の立馬左内《たつまさない》というのを、こんどの立役者だときわめをつけ、十歳《とお》になる伜《せがれ》もろとも番屋へひきあげ、追っつけ口書をとろうとしているというのに、北の大将は餓鬼《がき》どもにまじって、火除地の原っぱで凧あげたあ、どうですか。……役割部屋へたずねて行くと、毎日、朝っから飛びだして、夕方でなけりゃ帰らないということだから、てっきり身を入れてやっていてくださるんだとばかり思っていたら、あなたは、こんなところで遊んでいたんですか」
「ああ、そうだよ」
 ひょろ松は泣きだしそうな顔で、
「そうだよ、は泣かせるね。……こんなことなら、いっそ初《はな》ッから頼りにするんじゃなかった。……当にしていたばっかりに、あっしの方はてんで持駒《もちごま》なし。……あっしのほうはどうしてくれるんです」
 顎十郎は、ちょいと凧の糸をあしらってから、
「……ほう、藤波がそんな早いことをやったか。……それにしても、そんな子供までひきあげたのは、どういう経緯《いきさつ》のあることなんだ」
 ひょろ松は、顎十郎のそばへしゃがみながら、
「……つまり、御用金が金座から出た朝、凧をあげたのは、その子供ひとりだったんで……」
「それが、どうしたというんだ」
「……ご承知のように、御用金が金座を出たのが朝の六ツ刻。……ところが、左内のせがれの芳《よし》太郎というのが、それから半刻ほど前に長屋の空地で、たったひとりで凧をあげていた。……いくら好きでも、六ツといえば夜があけたばかり。……そういう時刻に凧をあげるのはおかしい。……ところで、芳太郎の父親の左内はお金蔵方。……藤波の推察じゃ、これから間もなく金座から御用金が出るということを、子供のからす凧で
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