引《あいひき》だ」
 勝手の障子をサラリとあけると、顎十郎、揚幕《あげまく》からでも出てくるような、気どったようすで現れてきて、
「これはこれは、藤波先生。……どうも、あなたは人が悪いですな。ちゃんと亥刻《よつ》とお約束がしてあるのに、こんなお早がけにおいでになるんで、だいぶ、こちらの手順が狂いましたよ」
 といいながらドタドタと小竜のほうへ歩いてゆき、
「……もしもし、小竜さんとやら……なにも、そんなところでヒイヒイ泣いてるこたァないじゃないか。……そこに突っ立っている先生にちゃんと言ってやりなさい。……濡れ紙で口をふさいだなどと飛んでもない。……あたしが来た時、千賀春さんはもう死んでいたんです、と立派に言いきってやんなさい。……余計なことは言う必要がない……掛けあいに来たのだろうと、ごろつきに来たのだろうと、いやみを言いに来たのだろうと、あるいはまた、しんじつ、殺す気で来たんだろうと、そんなことは一言もいりません。……なにしろ、お前さんが来た時にア、たしかに千賀春さんは死んでいたんだから、ありのまま、それだけを言やアいい。……さあさあ、どうしたんだね」
 小竜は、涙に濡れたつぶらな眼で顎十郎の顔を見あげ、
「まア、あなた……どうして、それを。……あちきは、もう、どう疑われてもしようがないと、覚悟をきめていましたのに」
 藤波は、額に癇の筋を立て、
「おいおい、仙波、つまらない智慧をつけて言い逃そうとしたって駄目なこった。……相手は藤波だ。このおれの眼の前で、あまり、ひょうげた真似をするなア、よしたらよかろう」
 顎十郎はまあまあと手でおさえ、
「べつに智慧をつけるの、どうのってこたアありません。……しんじつ、ありのままのことを言ってるだけのこと。……嘘だと思ったら、これから小竜が言うことをじっくりきいてごらんなさい。それが、どういう次第だったか、よッくご納得がゆきましょうから。……さア、小竜さん、この先生がいきさつを聞きたいとおっしゃる。……ゆうべのことをありのままに話してごらん、なにもビクビクするこたアない」
 小竜は美しい科《しぐさ》でちょっと身をひらくと、すがりつくような眼つきで顎十郎の顔を見あげながら、
「では、お言葉にしたがいまして……。細かないざこざはもうしませんが、どうでも肚にすえかねることがござんして、その埓《らち》をあけようと思い、ゆんべ、宵の口の五ツ半ごろここへ押しかけてまいりました。……知らない仲ではござんせんから、上り口で声をかけ、この座敷へ入って見ますと、千賀春さんは、長火鉢にもたれてぐったりと首を垂れております。むかしから後ひきで、飲み出すと、つぶれるまで飲むほうだから、あちきは、またいつもの伝だと思いまして、……どう、おしだえ、千賀春さん、見りゃア、まだ四本《しほん》、こんなこってつぶれるとはむかしのようでもないじゃないか。まア、もうひとつあがれ、なんて申しながら、そこの銚子をとって酒をつぎ、そいつを、さアと突きつけたはずみに、わちきの手がむこうの肱《ひじ》にふれたと思うと、千賀春さんはがっくりと火鉢の中へのめってしまいました……」
「なるほど……」
「……おどろいて、火鉢のむこうへ廻りこんで行って抱きおこそうと思って、なにげなしに手にさわりますと氷のように冷たい……顔も首すじも酒に酔ったように桜色をしておりますのに、それでいて、まるっきり息をしていないんでござんす。あッと、千賀春さんの身体《からだ》を突きはなしましたが、柳橋《やなぎばし》では誰ひとり知らないものもござんせん、わちきと千賀春さんのいきさつ。……こんなところを見られたら、どう言いはってもあちきが殺したと思われましょう。……そう思うと、急に恐ろしくなりまして、死んだ気になって千賀春さんを抱きおこし、さっきの通りに火鉢にもたれさせ、宙にでも浮くような気持でここから走り出したんでござんすが、家へ帰って見ますと、比翼の紋を打った平打の銀簪がござんせん。……そう言えば、千賀春さんを抱きおこすひょうしに、キラリと火鉢の中へ落ちこんだような気もいたします、それで……」
 顎十郎は手を拍って、
「いや、そのへんで結構……あとはこちらに判っている」
 藤波は壁ぎわにすわって、冷然たる顔つきで小竜の話を聞きながしていたが、小鼻をふるわせてふんとせせら笑い、
「判ってるとは、いったいどう判っている」
「これはしたり……これでもまだおわかりになりませんか。……これは少々意外ですな、小竜が開陳《かいちん》したのはなるほどただの話だが、たったひとつ、動きのとれない証拠がある」
「ほほう、それはいったい、どういうことです」
「手が冷たいのに、顔も首筋も桜色をしていたというところ……」
「ふん、だから、それが?」
「……あなたは、さきほど濡紙で口をふさいだと言
前へ 次へ
全8ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング