り絆纒をひきのけて起上ると、のっそり囲炉裏のほうへ近づいて来たのは、藤波の右腕といわれるせんぶりの千太、生れてからまだ笑ったことがないという苦ッ面の眉間に竪皺《たてじわ》をよせてムンズリと膝を折ると、
「寝ていたわけじゃアありません、泣いてたんでございます。実ァ……」
と言って、ガックリとなり、
「実は、あッしが検死にまいりました。なんとも、お詫びのもうしようもありません」
藤波は、えッと息をひいて、
「おめえが、……おめえが行って縮尻《しくじ》ったとは、それは、どういう次第で……」
まともに顔をふり向けると、
「それが、……赤斑《あかふ》もあれば、死顔は痴呆《こけ》のよう。下痢《くだ》したものは、米磨汁《とぎじる》のようで、嘔吐《はい》たものは茶色をしております。どう見たって、虎列剌に違いねえので……」
藤波は深く腕を組んで考え沈んでいたが、ふいに顔をあげると、
「そりゃア、確かだろうな」
「へい。……石井順庵先生の御診断《おみたて》でございます。あッしといたしましても、それ以上には、……」
藤波は、かすかに頷いて、
「それで、その毒はなんだ」
「ですから、はなッから、盛り殺したなんてことは誰れの考えにもなかッたことなんで……」
藤波は焦ら立って、
「すると、石井先生にも判定のつかねえような毒を、どこのどいつが見分けたというのだ」
千太は、無念そうに唇を噛んで、
「またしても、顎の化物の仕事なんでございます」
藤波は、ちぇッと舌を鳴らして、
「おい、あの顎はなんだ、神か、仏かよ。……多寡《たか》が番所の帳面繰りじゃねえか、馬鹿にするな。なるほど、今まではちッとは小手先の器用なところも見せたが、そこまでの智慧があろうとは思われねえ。……おい千太、念のために聞くが、では、その忠助という手代は、石井先生にも判らねえような巧妙な毒を盛れるような、そんな才覚《さいかく》のありそうなやつなのか」
「飛んでもない、まるっきり、ふぬけのような男なんでございます。とてもそんなことをしそうなやつじゃアございません」
藤波は、なんとも冷然たる顔つきになって、急に立ち上ると、
「おい千太、出かけよう」
「えッ、出かけようといって、一体、どこへ」
「わかってるじゃねえか、顎化《あごばけ》と一騎打ちに行くのだ。……口書《くちがき》も爪印《つめいん》もあるものか、どうせ、拷問《いた》めつけて突き落したのにちげえねえ。……ひとつ、じっくりと調べあげて、ぶっくらけえしてやろう。さア、堺屋へ行こう、堺屋へ行こう」
聞くより千太は勇み立って、
「ようございます、そういうことになりゃア、骨が舎利《しゃり》になってもやっつけます。いっそ、忝《かたじ》けねえ[#「忝《かたじ》けねえ」は底本では「添《かたじ》けねえ」]」
危険
古すだれの隙間から涼風が吹きこんで、いぎたなく畳の上でごろ寝をしている顎十郎の鬢の毛をそよがせる、それからまた小半刻、顎十郎は、
「ううう」
と、精一杯に伸びをすると、じだらくな薄眼をあけて陽ざしを見あげる。時刻はもうとうに申《さる》をすぎている。
一種茫漠たるこの人物は、この脇坂の中間部屋《ちゅうげんべや》にこれでもう十日ばかり流連荒亡《るれんこうぼう》している。北町奉行所の与力筆頭の叔父庄兵衛が扱う事件に蔭からソッとおせっかいをし、うまく叔父をおだてあげて、纒った小遣いをせしめると、部屋を廻って大盤振舞をして歩く。手遊びをしに来るのではない。中間とか馬丁陸尺とかいう連中にまじって軽口《かるくち》を叩いたり、したみ酒を飲みあったりするのがこの世の愉快だとある。あまり上等な趣味ではない。寝っころがって中間どもの小ばくちを横合から眺めたり、とりとめのない世間話に耳をかたむけたりしながら、金のある間ごろッちゃらしている。尤もここぐらい、いろいろな世間のうわさが早く伝わってくるところもすくない。ここにごろごろしていると、肩が凝らずいながらにして浮世《うきよ》百般の消息がきかれる。顎十郎がいろいろと人の知らぬ不思議な浮世の機微に通暁しているのは、多分、そのためだろうと思われる。ただし、なにか思うところがあってやっているのか、それとも出鱈目《でたらめ》なのか、こんな風来人《ふうらいじん》のことだから、性根《しょうね》のほどはわからない。
中間部屋では顎十郎を知らないものはまずない。このほうでは、だいぶいい顔である。
綽名のゆえんであるところの、ぽってりと長い異様な顎をふりながら顎十郎がのっそり入って来ると、部屋部屋は俄かに活気づく。互いにひどく気が合うのである。謀反《むほん》でも起すとなったら、江戸中の中間どもはひとり残らず顎十郎の味方につきかねない。顎十郎のほうでは、格別なにをしてくれと頼むでもない、のほほんと寝こ
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