と冷水をあびたようになって、言葉もなく二人が眼を見合せていると、人気《ひとけ》のない筈の杉の林の中で、大勢の人間がドッと声を合わして笑い出した。木立の間をすかして見ると、これは、いったい、どうしたというのだろう。馬丁、陸尺、中間ていのものが、凡そ五十人ばかり、むらむらと雲のようにむらがっていた。
ねずみ
顎十郎が組屋敷の吟味部屋《ぎんみべや》へ入って行くと、叔父の庄兵衛とひょろ松が、あけはなした櫺子窓《れんじまど》の下で、上きげんの高声で話し合いながら、笑っていた。
顎十郎が入って来たのを見ると、庄兵衛は日ごろの渋っ面をひきほごして、
「やア、風来坊が舞いこんできた。……これ、阿古十郎、貴様が中間部屋にしけこんでいるうちに、だいぶ世の中が変ったぞ。突っ立っていないで、ここへ坐れ。手柄話をきかせてやる」
顎十郎は、のんびりと顔をひきのばして、
「それは、近ごろ耳よりな話ですな。ちょうど、水の手が切れかかっていたところだから、手前にとってはもっけのさいわい」
と、いいながら、叔父のそばに大あぐらをかくと、
「叔父上、それはいったいどんな話です。まさか、堺屋の件ではありますまいな」
庄兵衛は、おどろいて、
「貴様、それを、どこで耳に入れた。この件はまだ世間にはけっして洩れない筈だが……」
「と思うのが、たいへんなまちがい。どういうわけか、この阿古十郎の耳にはちゃんと届いております。……上手《じょうず》の手から洩れると言いますが、それは、この辺のことでしょう」
ひょろ松は膝をゆり出し、
「阿古十郎さん、こんどくらい、気持のいいことはごぜえませんでした。……実は今月の晦日《みそか》に、伝馬町の堺屋から虎列剌《ころり》が出たんです。……主人の嘉兵衛と一番番頭の鶴吉と姉娘の三人がひどい吐潟下痢《はきくだし》をして死んでしまった。ちょうど月代りの最後の日で、呉服橋からは、せんぶりの千太が高慢ちきな顔をして出張《でば》って来て、ひと目見るなり、こりゃア、虎列剌だ、まぎれはねえ、で引きとって行った。……ところが、あくる日からすぐこっちの月番だ。……ひどく無造作に渡したが、さて、受取って考えて見ると、どうも妙な節々があるんです」
顎十郎は、気のなさそうな顔つきで、
「ほほう、妙というのは、どう妙?」
「まあ、お聞きなさいまし。いったい、堺屋では、主人の嘉兵衛と姉娘
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