「飛んでもねえことをしやがる。やい、待てッ……」
 砂利を蹴って後先になってバラバラと追いかけて来る。
「糞でも喰え、だれが待つか」
 じぶんも大きな声で、泥棒、泥棒と叫びながら潜り門のほうへ駈けだし、
「お門番、お門番、いまそこへ盗人が走って行きます」
 詰所で将棋を差していた門番が、驚いて駒を握ったまま飛びだして来る。
「やいやい、なにを騒いでいやがるんだ」
 顎十郎は、息せき切って、
「ど、泥棒。……いま、ぬすっとが逃げて行きました」
「馬鹿をいえ、そんなはずはない」
「はずにもなにも……あれあれ、あそこへ……」
 待て待て、そのぬすっと待て、と叫びながら潜り門を飛びだす。
 和田倉門のほうへ行かずに、町奉行の役宅の塀についてトットと坂下門のほうへ駈けながら、うしろを振りかえって見ると、番衆や同心に公事師もまじって、一団になってワアワアいいながら追いかけて来る。……どっちへ逃げてもお濠のうち。
 紅葉山の下を半歳門のほうへ走りだして見たが、このぶんでは半蔵門で捕るにきまっている。
「ままよ、どうなるものか、西の丸の中に逃げこんでしまえ」
 幸いあたりに人がない。
 躑躅《つつじ》を植えた紅葉山の土手に取っついて盲滅法に掻きあがる。
 飛びこんだところが、ちょうど廟所のあるところ。築山をへだてて向うにお文庫の屋根が見える。顎十郎は、楓の古木の根元へドッカリと胡坐《あぐら》をかき、
「ここまで来りゃあ大丈夫。……いま、西の丸へ怪しきやつが入りこみましたから、なにとぞ、ご支配までお通じください。……支配から添奉行、添奉行から吹上奉行と手続きを踏んでいるうちにとっぷりと日が暮れる。……まあ、そう言ったようなわけだ……では、ひとつ箱を壊しにかかるか」
 懐中から五寸ばかりの細目鋸《ほそめのこ》を取りだして、状入口からゴシゴシと挽き切りはじめる。
 刳《く》りあけた穴から手を入れて見ると、五通の訴状が入っている。
 丁寧に封じ目を解いてひとつずつ読んでいたが、五通目の最後の訴状に眼を走らせると、
「うへえ!」
 といって、首をすくめた。

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 女々しいことですが、わたくしは前の本性院様の側仕えの八重と申す女に捨てられた男でございます。
 その怨みを忘れることが出来ませんので、意趣を晴らすため、八重の一派が企ておる謀叛の事実をここに密訴いたします。
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