睨んでいると、先程の女がはげしい川波に揉まれながら、浮きつ沈みつ流れてくる。
女の頼み
水際に倒れていたひと抱えほどある欅の朽木を流れの中へ押し落すと、身軽にヒョイとその上に飛び乗り、押し流されてくる女の襟くびを掴んで川岸へ引きよせる。波よけの杭に凭《もた》せておき、石子詰《いしこづめ》の蛇籠《じゃかご》に腰をかけてゆっくりと一服やり、
「これで一段落。……あとは水を吐かせるだけ」
暢気なことを言いながら、薄月に顔むけて眼を閉じている女の顔をつくづくと眺める。
二十歳といっても、まだ二十一にはならない。目鼻立ちのきっぱりした瓜実顔。縮緬の着物に紫繻子の帯を立矢の字に締め、島田に白い丈長《たけなが》をかけ、裾をきりりと短く端折って白の脚絆に草鞋を穿いている。
「これは大したもんだ。甲府じゃこんな鼻筋の通った女に、お目にかかったことがなかった。……齢はまだ二十歳になったぐらいのところだが、崖に吊りさげられながらあんな悪態をつくなんてえのは、この齢の小娘にはちょっと出来ない芸当だ。……波切りの観音さまのようなおっとりした顔をしているくせに、よくまあ、あんな憎まれ口がきけたものだ、これだから女はおっかねえ。……しかし、いつまでもこうしておくわけにはゆくまい、どれ、水を吐かせてやるか」
吸殻を叩いて煙草入れを袂へ落すと、やっこらさと起ちあがり、まるでごんどう鯨でも扱うように襟を掴んでズルズルと磧《かわら》へ引きあげる。衿をおしあけて胸のほうへ手を差し入れ、
「おう、まだ温《ぬく》みがある。このぶんなら大丈夫。……落ちる途中で気を失ったとみえて、いいあんばいにあまり水も飲んでいない」
がんじがらめになっている繩を手早く解いて俯向けにして水を吐かせ、磧の枯枝や葭《よし》を集めて焚火を焚き、いろいろやっているうちに、どうやら気がついたらしく微かに手足を動かし始めた。
「へえ、お生き返りあそばしたか」
女の肩に手をかけて、手荒く揺すぶりながら、
「姐さん姐さん、気がつきなすったか」
女は、長い溜息をひとつ吐くと、ぼんやりと眼をあいて怪訝《けげん》そうにあたりを見まわし、
「……いま、なにか仰有《おっしゃ》ったのはあなたでしたか。……あたしはいったい、どうしたのでしょう」
「どうしたもこうしたも、ありゃしない、お前さんが鐘ガ淵へ落しこまれて土左衛門になりかかって
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