ら見せてもらえるかねえ」
「とんでもねえ、風邪をひかせる」
「じゃあ、触るだけならよかろ」
「うむ。……じゃ、床のなかへ手を入れて見るがいい。そっとだぞ。そっとだぞ」
 赤土焼屋《テラコッシェ》は床のなかへ手を差し入れた。
「象の卵?……おっと、触った、触った。……南無三《モン・ジュウ》、こりゃどうじゃ、もう孵《かえ》っているに! 俺ぁいまたしかに象の鼻に触った!」
 と、いったが、元来、ココアの実から象の生れるわけはない。またしてもマルセーユ人に一杯喰ったのに違いない。ああ、用心するがよろしい。法螺吹《ほらふ》き、いかさまの、ペテン師の、この乾物屋の主人《おやじ》のような奴ばかりうようよしている、これがマルセーユだ!
 二、憐れなるかな網焼肉《シャトオブリヤン》の命乞い。さて、コン吉ならびにタヌキ嬢の両氏が、コルシカはタラノの谿谷で宏大無辺なる自然を友とし、唱歌を歌いつつ日を過すうち、はや、一ヵ月は夢の間に過ぎ、モンテ・カルロで受けた心の傷《いたみ》もようやく癒《い》えたので、面構《つらがま》えに似気《にげ》なく心の優しい部落の面々に別れを告げ、固く再来を約し、勇ましいタラノ音頭に送られて谷を出発したのは六月の始め。途中マルタ島で珊瑚採取の実況を見物してマルセーユへと到着すれば、七月十四日は革命記念日を兼ねプロヴァンス、ラングドック一帯の大祭につき、アルルの闘牛場《アレエヌ》では、今年の皮切りの闘牛《コリダ》が催されるので、マルセーユはもちろん、プロヴァンス一帯は湧きかえるような前景気。
 とりわけ、今年の催し物は、例年の闘牛のほかに、近県六市から荒牛《トオロオ》の代表を一頭ずつ選び、|牛の競走《フェラード》やら|牛の角力《コンバ・ド・トオロオ》を行なうというので、元来お国自慢の南部《ミデイ》の面々、日ごろたしなむ舌術に拍車をかけ、己《おの》が郷里の牛こそは、天が下にたぐいまれな荒れ大王と、珈琲《キャフェ》店の露台《テラッス》でも四つ辻でも、たがいに物凄い法螺《ほら》の吹き合いから、果てはつかみ合いに及ぶという見るも勇ましき盛況。
 そもそも今年の牛角力《コンバ・ド・トオロオ》の番付けには、

[#ここから2字下げ]
一、爆撃機。(タラスコン代表)
二、ヘルキュレス。(マルセーユ代表)
三、山猫。(カマルグ代表)
四、東方魔国王《マーゴス》。(ニーム代表)
五、活火山。(アルル代表)
六、屠牛《とぎゅう》所長。(アヴィニョン代表)
[#ここで字下げ終わり]

 と、その名を聞いただけでも、気の弱い牛ならば貧血を起こそうという慓悍《ひょうかん》無比の猛牛ぞろい、なかにも、マルセーユ代表のヘルキュレスというのは、当年満三歳の血気盛り、相手の前肢《まえあし》に角をからみ、とたんにやっ! と、捻じ倒す『|足挾み《シイゾオ》』に至っては、誠にもって至妙の術。これに出あってはいかなる猛牛《トオロオ》といえども手も足も出ない。されば、ヘルキュレスはマルセーユにほど遠からぬフォレの荘園に眷属、門弟およそ三百匹をひかえ、当時飛ぶ鳥も落そうという威勢である。
 ここに、六月のとある日、コン吉とタヌが旧港《ヴィユ・ポオル》に近い旗亭《レストオラン》の露台で名代の香煎魚羮《ブイヤベイス》を喰べ、さて次なる牛肉網焼《シャトオブリアン》を待っていると、手近な窓から、見るも無惨に痩《や》せ果てた牛が首を差し入れ、水洟《みずばな》をすすりながら、
「モウ!」と鳴いた。タヌはそれを見るより、
「あら、いやよ! 給仕《ギャルソン》。これではあまり生焼《セニャン》過ぎるわ。もう少しよく火を通して来てちょうだい」といったのはまた無理もない次第であった。
 給仕も飛んで来て、しきりに、しっ! しっ! と追い立てるが一向に動かない。そこでコン吉がつくづくと眺めると、どうやら辱知《しりあい》の牛である。
「タヌ君、どうもこれはどこかで見た牛だと思うが、心当りはないかね。それとも照り焼きになるのが嫌いで命乞いに来たのだろうか」と、神秘的なことをいう。そういわれてタヌもしきりにためつしかめつ[#「ためつしかめつ」に傍点]していたが、やがて急に膝を打って、
「これはコルシカのポピノの家にいたナポレオンよ。ほら、額んとこの王冠の形をした斑《まだら》をごらんなさい」
「なるほど、これはコルシカのナポレオン!」
「ま、ナポレオン、ナポレオン! お前どうしてこんなところへ来たの」といいながら、首をかかえて頬ずりすると、ナポレオンはたちまち四つ足を浮き立たせて恐悦し、涎《よだれ》やら目脂《めやに》やら止めどもなく流し、タヌの手やら顔やらでれりでれりとなめあげた。
 すると、波止場の方から息せき切ってかけて来たのはコルシカ人、ジュセッペ・ポピノ。牛と二人を見るより感きわまったもののごとく
前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング