がて『山猫』は『爆撃機』の角《つの》の間に角を差し入れ、右にひねり左にひねりしてじりじりと押し始めた。『爆撃機』はおいおい後退して柵のそばまで押しつけられ、そこで、少し尿《いばり》をし、間もなくその尿の上へどたりとひっくり返された。
 次は、アルル対アヴィニョンの取組み。
[#天から3字下げ]活火山――屠牛所長。
 これはいたってあっけなくかたづいた。『活火山』は、『屠牛所長』に胸の下からすくわれ、よく晴れた空から牛が一匹降って来たように、どたりと砂場に落ちた。それでおしまい。
 そこでいよいよマルセーユの『ヘルキュレス』対、片《かた》やコルシカの『ナポレオン』の顔合せだ。なにしろ思いも掛けぬ不遜《ふそん》な挑戦にマルセーユ人はすっかりカンカンになっている。コルシカに牛の喰物なんぞあるものか。そんな栄養不良の牛にマルセーユのヘルキュレスが負けてたまるものかというので、ナポレオンが砂地へ出るとたちまち、ドッとばかりに笑い声をあびせかけた。なるほど笑いたくもなるというのは、ナポレオンは広々とした明るい砂地へ出ると心持がよくなったとみえて、そこんとこへ長々と寝そべったからだ。桟敷にはたちまち勝手放題な罵声やら嘲笑が氾濫して蜂の巣を突き壊したような大騒ぎになった。
 少し遅れて、大歓呼大拍手のうちに、悠然《ゆうぜん》と『ヘルキュレス』が現われて来た。いかにも大きな牛である。機関車ぐらいたしかにある。全身磨きあげられた象牙のように白く輝きわたり、角は頭一杯に拡がってまるで羚鹿《となかい》の化物のように見える。これが砂地のまん中に立ち止まると、会長席の前で献辞《ブリンデア》を述べる仕止師《マタドール》のように一声高く吼《ほ》え立てたが、その声の素晴らしさというものはもっぱら大工場のサイレンかと思われるばかり。
 遮塀《パレエ》にしがみついていたコン吉はもう気が気ではない。
「さあ、タヌ君、えらいことになった。これではとても角力《すもう》にはなるまい。なにしろ、灯台と破屋《あばらや》ほども違う」といって、何を思ったか、けたたましい東洋語をもって、
「ナポレオン! しっかりやれエ。ここに俺がいるぞオ!」と、わめき立てる。タヌもポピノも共に声をそろえて、
「ナポレオン! ふれえ! ナポレオン! ふれえ!」と掛け声をかけると、その声に驚いたものか、ナポレオンは、『ヘルキュレス』の方へお尻を向け、跳ねあがりながらとんでもない方へ逃げ出した。と、見ているうちにはるか向うの塀ぎわでくるりと向きを変えると、山道をかけくだる猪《いのしし》のような一本調子で『ヘルキュレス』めがけてまっしぐらに飛び込んで来たが、南無《なむ》三、少々方角が違ったので、『ヘルキュレス』の尻尾のそばを通り過し、そばの塀のなかへ角を突っ込み、そこで、もう! と鳴いた。
 九、的に声あり降参降参という。勝負はなかなかつかない。それで一旦引き分けて|中入り《アントラクト》になった。
 これからの顛末《てんまつ》はもう長々と書きつづけるにはおよぶまい。|中入り《アントラクト》がすんで、穹門《アルク》から現われた『ヘルキュレス』の横っ腹を見ると、右の前肢《まえあし》のところに、誰れの仕業か、黒ペンキで大きな的が書かれてあった。続いて出て来たナポレオンはというと、低い鼻のうえに、コン吉の乱視の眼鏡がかけられてあったのである。
 たちまち勝負はあった。『ヘルキュレス』は腫物のうえをいやというほど突かれて、砂のうえに前肢を折って降参、降参した。
 つまり、コルシカが勝ったのだ! これで以後|忌々《いまいま》しいマルセーユ人は、牛角力《コンバ》に関する限りあまり大きな法螺《ほら》は吹かないであろう。
 コルシカ万歳!



底本:「久生十蘭全集 6[#「6」はローマ数字、1−13−26]」三一書房
   1970(昭和45)年4月30日第1版第1刷発行
   1974(昭和49)年6月30日第1版第2刷発行
初出:「新青年」
   1934(昭和9)年6月号
※表題は底本では、「乱視の奈翁《なおう》」となっています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2009年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング