から、
「いいえどうぞ、ご主人から」と、懸命に辞退した。
「ご遠慮も時によりましょう。まずまずお通り下さい」
「でも、なんですか、この穴は少しちいさ過ぎると思うんですけど。……それに、多少不潔でもありますし……」
公爵は爪をかんで、しばらくコン吉の顔をみつめていたがやがて、
「なあに、いざこざはないさ」とつぶやきながら、壁に立て掛けてあった件《くだん》の細長い袋から、菩提樹《ぼだいじゅ》の杖に仕込《しく》んだ、夜目《よめ》にもどきどきするような三稜[#「稜」に傍点]の|細身の剣《ラツピエール》を抜き出して、コン吉の鼻っ先へ突きつけ、さて「這え!」と、もの柔らかに命令した。
コン吉は吃驚《びっくり》敗亡、何の否やもあらばこそ、仰せのごとくに四ん這いになると、引き続いて、
「穴に頭を突っ込め! お尻をもたげて!」という厳命。されば、コン吉はお尻をもたげ、麒麟《きりん》が池へ水を飲みに来たような姿勢をとると、公爵は、その尻を、
「おう!」という掛け声もろとも、三稜剣《ラツピエール》で横|薙《な》ぎに引っぱたいたから、コン吉はたまらない、
「うわア!」と一声、悲痛な叫びを地上に残して逆落しに石炭|孔《あな》の闇の中へと消えうせた。
五、二月の空は南方《ミデイ》特有の深い紺碧に澄み渡る。ミモザと駝鳥の首のような、とぼけた竜舌蘭《アロエース》の花が、今を盛りと咲き乱れるキャンヌの公園では、はや朝から陽気な軍楽隊《ファンファル》、エドゥアール七世の銅像の前を、テニス服を着て足早やに行くのは隣りの別荘の英吉利《イギリス》娘。アルパカのタキシイドを着てひょっこり賭博場《キャジノ》から出て来たのは、多分昨夜、コン吉から、三十|法《フラン》ばかり巻きあげたあの憎い|玉廻し《クルウピエ》であろう。
コン吉が石炭庫の石炭で手ひどくやられた、右足を軽く跛《びっこ》にひきながら、公爵とタヌのあとに附きそって、ブウルガムの広場《スクワアル》をひょろめき下り、しかるのち、オテルサヴォイの露台《テラス》に坐り込んで、アルベエル・エドゥアールの突堤《ジコテ》に続く棕櫚散歩道《パルム・ビーチ》をおもむろに眺めるところ、行くさ来るさの市井雑爼は今日もまた寝巻的散歩服《ジュップ・ピジャマ》の令嬢にあらざれば袖無寛衣《ブルウズ・サン・マンシュ》の夫人《おくさん》、老いたるも若きも珍型異装を誇り顔に漫々然
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