ケた。
男は、ニヤニヤ笑ってコン吉を見ていたが、やがて |〔Quand nous e'tions deux〕《おまえとふたりでいたときにゃ》 という小唄を口笛で吹きながら、横の小道の方へ入って行ってしまった。
どこを、どう辿《たど》ったのかまるで夢中でサン・フロランタンの「|旅館・金の鶏《オテル・コックドル》」というのにころげこんだのは九時近く。二人は九死一生の思い。――食卓をへだてて顔を見合せながら、たがいの無事を祝っていると、さっきの男が鬱金《うこん》色の|前掛け《タブリエ》を胸から掛けて、スウプの鉢を持ち出して来た。コン吉は、
「や、また来た!」といって立ちあがろうとすると、男は卓《テーブル》の上へ鉢を置きながら、
「日本人《ジャポネ》ってのは野蛮で勇気がある、ってことを聴いていたが、あなたの臆病なのには驚いた。もっともあなたの様なひとばかしじゃないんでしょうが……」といって笑った。
一〇、失せ物は巽《たつみ》の方の栗《マロニエ》の根元を探すべし。デイジョンを過ぎ、ボウム駅の手前の、ニュイ・サン・ジャンという町へ着いたのはそれから三日の後《のち》のこと。するとその晩、この愛すべき自動車は中へ突っ込んでおいた「ナポレオン三世」の瓶や上靴ももろ共に何者かに窃取された。こんなものは誰れも持って行くまいと安心して、市場の前の庭へ投げ出して置いたのが悪かったのだ。芥箱《ごみばこ》であれ touf−touf であれ、あれはわれわれの財産だ。とりあえずその町の分署へ行って、机の前で泰然と腕組みしている署長に訴えた。
「署長さん、実は昨夜《ゆうべ》、われわれの車《マシン》が盗まれました」
「ほほう、どんな車《マシン》だね?」
「二人乗るくらいの、ほんのちょっとしたやつなんですけど」
「番号は何番じゃったね」
「あの車に番号なんかあったかしら?」
署長は大きな帳面を引き出して、親指の腹を※[#「舌+低のつくり」、第3水準1−90−58]《な》めあげ※[#「舌+低のつくり」、第3水準1−90−58]めあげ頁《ページ》を繰《く》っていたが、
「盗まれたのは何日《いつ》だといったかね?」
「昨夜《ゆうべ》なんですの」
「昨夜《ゆうべ》? いや、そんな事はあるまい。もう六ヵ月にもなっている。あんた達の車というのは、拾得物としてちゃんと届け出てありますぞ。ご安心なさるがいい。今、引き渡しますから、ここで待っていなさい、いいか」といって戸外《そと》へ出て行ったが、やがて、曲馬団ででも使ったと思われる「|二人乗りの自転車《ダンデム》」を押し出して来た。
「どうじゃネ?」
「なんですか?」
「あんた達の盗まれた車《マシン》というのはこれじゃろうね。二人乗りの無番号。こんなものをむやみに落しては困るねえ。ささ持ってゆきなさい。帳面のここんところへ署名《シニエ》して……」
この町の旅館に二日の間滞在して、泰然たる署長がもたらすであろう吉報を待っていたが、自動車も「ナポレオン三世」もとうとう現われて来なかった。あの自動車は、見かけは滑稽《こっけい》なやつだけど、乗ってるうちにいろいろな美点も発見した。今では執着も残るし、名残《なごり》もなかなか深いが、なくなったものは今さらどうにも仕様がない。あの自動車のまぎれない特徴は、仏国警察の頑丈な盗難台帳に記帳しておいたから、もし縁があれば、また廻《めぐ》り合うこともあるであろう。
二人はその夕方、ボウム駅から|P・L・M急行《パリ・リヨン・メディティラネ》で、常春《とこはる》の碧瑠璃海岸《コオト・ダジュウル》へ向けて出発した。
底本:「久生十蘭全集 6[#「6」はローマ数字、1−13−26]」三一書房
1970(昭和45)年4月30日第1版第1刷発行
1974(昭和49)年6月30日第1版第2刷発行
初出:「新青年」
1934(昭和9)年2月号
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2009年10月26日作成
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