うような、ひろい、おおまかな微笑である。
キャラコさんは、やれやれ、と思う。ようやく、楽に口がきけるようになる。
「あなたは、もしかして、あたくしを知っていらっしゃるのではないでしょうか」
そのひとは、元気のいい声で笑い出した。
「どうして、知らない訳があるもんですか。……君はね、むかし、僕をひどく手こずらしたことがあるんだよ。……覚ていないかも知れないが……」
よく響く声でこういうと、無造作にキャラコさんの手をとって、
「それにしても、ずいぶん、綺麗になったもんだ! それに、立派な顔をしている」
キャラコさんは、楽しすぎて、すこし茫《ぼう》となる。そのひとの掌は大きく温かくて、その手にとられていると、なんともいえない頼母《たのも》しさを感じる。
いいたいことが、あれもこれもと沢山あって、なにからいい出していいかわからない。大あわてに狼狽《あわ》てたすえ、わけのわからないことを口走る。
「あなた、あたしがどうしてここへ来たか、ごぞんじ?」
そのひとは、また笑った。
「知りませんね」
キャラコさんは、ふうん、と鼻を鳴らす。
西洋骨董店の飾窓で絵を見てから、ここへ辿《たど》りつくまでの、苦心や悩みをつぶさに訴えたいと思うのだが、どうもうまくいえそうもない。断念《あきら》めて、こんなふうにいう。
「あたし、これでも、ちょっと敏感なところがありますの。自分の記憶だけで、ここまでやって来ましたのよ。……むかし、一度ここへ来たことがあったってことは、あたしも薄々知っていましたの。でも、それがいつだったのか、ここで何をしたのか、まるっきり記憶に残っていませんの」
そのひとは、玄関の石段にしゃがみながら、
「それは、とても大変だったんだよ。……もう、何年になるか、よく覚えていないけど、君が叔父さんというひとと、この辺へ遠足に来て、とつぜん、えらい熱を出して、わけがわからなくなってしまったんだ。……なにげなく、アトリエの窓から見おろすと、君の叔父さんが、あそこの木槿《ぼけ》のあたりで、君をかかかえてうろうろしている。……そのころ、この辺には、僕の家だけしかなかったもんだから、かまわないから、って、そういってね、僕ンところへ入ってもらって、医者が来るまで、井戸水を汲《く》んじゃ君の頭を冷やしていたんだ。……叔父さんというひとは医者を迎えに行ったきりなかなか帰って来ない
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