しにのんびりと歩きつづけていた。
 はっきりとはわからないが、心をひそませてじっくりと記憶をたどると、雁来紅《はげいとう》の家へ行く道筋が、おぼろげに心に浮んでくる。
 赤土の崖道をしばらく歩いて行くと、そのうちに、小さな流れに行きあたる。……その土橋をわたると、枳殻《からたち》の長い垣根が始まって、道がすこし登りになりながら、雑木林の中へ入り込んで行く。……雑木林を出ると、急に眼の前がひらけ、ゆるい丘の中腹ほどのところにその家がある……。

 キャラコさんは、切通しの途中に立ちどまって、右左を見廻す。……どうも、この道もいちど通ったことがあるような気がする。雑木林のようすも、赤土の崖のいろも、ぼんやりと心の網膜にしみついている。
「……もしか、この道だとすると、ここを降り切ると、小川の小さな土橋のそばへ出るはずなんだけど……」
 十分ほど歩くと、道が大きくカーヴして、とつぜん、向うに小川が見え出した。
「川がある!」
 なぜか、不思議な気持も、恐ろしい感じも起きない。
 キャラコさんは、頓着しないでズンズン歩いて行った。この道にさえついて行けば、間もなく油絵の中の家に着くはずだった。
 ……そして、あの青年が絵のままのようすでそこに住んでいる……。キャラコさんは、それを少しも疑わない。境遇としてはずいぶん奇抜なのだが、それが一向|訝《いぶ》かしく思わないのが、むしろ不思議なくらいである。
 ただ、現実と非現実の境目ぐらいのところを歩いているような、妙にたよりのない気持がする。ひょっとすると、油絵の風景の中へ紛れ込んで来たのではなかろうか。自分がいま歩いているのは現実の世界ではなくて、額椽の中の幻想の世界なのではないかといったような、とりとめのない不安を感じる。
 ところで、土橋を渡ると、果して、枳殻《からたち》の垣根が始まった。
 それから、雑木林を抜ける。……真向いの、なだらかな丘の斜面に、バンガロオふうの建物が側面に夕陽を浴びて、一種、寂然《せきぜん》たるようすで立っていた。
 キャラコさんは、満足そうな声を、だす。
「ほら、ちゃんとあったわ!」
 心がはずんで、唄でもうたい出したいような気持になってきた。早く門のところまで行き着きたくなって、口を結んで、せっせと歩きだす。
 下で見たよりも、しっかりした建物で、蔦《つた》のからんだ雅致のある石門がついている。
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