郎に深入りさせたのは、もちろん、あたしのあやまちにちがいありませんけれど、それは、あのころ、あたしの精神が稀薄《きはく》だったためで、どうにも止むを得なかったの。……好きでなければ結婚できないなんて無邪気なことはかんがえていませんけど、あたしにこんな転換が来てしまった以上、生活感情も生活態度もまるっきりちがうひとと結婚するなんてことは、どうしても考えられないから、この春、そのことをはっきりと悦二郎にうちあけましたの。……そのほうはよくわかってくれたけど、あたしがやった手紙は、なにかセンチメンタルなことをいって、どうしても返してくれないの」
「……でも、手紙ぐらい残しておいてはいけないの」
「くだらないと思うかも知れないけど、無意味にそんなものにこだわっているわけではないのよ。……あたし、ごく最近、劇団のあるひとと結婚するつもりなの。……だから、なにもかも、はっきり清算しておきたいの」
 そういって、眼に見えないくらい顔を赧《あか》らめた。そのちょっとしたことに、偽わりのない愛の感情がよく現われていた。そういう素直なそぶりを見ると、キャラコさんの心に、むかしの友情が甦《よみがえ》ってきた。キャラコさんは、同感の微笑をして見せた。
 緋娑子さんは、冷淡に眼を外《そ》らしながら、
「……そればかりではなく、あんな稚拙《ちせつ》な感傷をぶちまけた自分の手紙が、どこかに保存されていると思うだけで、いまのあたしの感情ではとても耐えられないことなの。おわかりになる?」
 キャラコさんは、それには返事をしない。緋娑子さんは人生にたいして、たいへん我ままだと思う。失敗した自分の過去をいちいち拭い消せるものなら、誰にしたって、それは望ましいことであろうけれど……。キャラコさんが、たずねる。
「それで、あたしに、どうしろとおっしゃるの」
「手紙の束《たば》を持ち出して来ていただきたいの」
 キャラコさんが、ききかえす。
「……つまり、盗むのね」
 緋娑子さんは、わかりきったことを、といった顔つきで、自若《じじゃく》とこたえた。
「ええ、盗んで来て、ちょうだい」
「よくわかってもらって、持って来るのではいけませんの」
 緋裟子さんは、冷笑をうかべながら、
「あなたのような同情屋さんに、そんなこと、できるかしら」
 なるほど、それにちがいない。あんなにも緋娑子さんを愛していた悦二郎氏の手から
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