気が遠くなる」
蒼ざめた額に玉のような汗をかき、身体じゅうを痙攣《けいれん》させながら悲鳴をあげた。
「もう、よしてくれ。足なんかいらないから、もう、よしてくれえ。死にそうだ」
キャラコさんは、やめない。しっかりした声で、激励する。
「もう、一、二分。……すぐすんでしまいますわ。もう、ほんのちょっと!」
そういう間も手を休めずに、セッセと沃度丁幾《ヨードチンキ》を塗る。
原田氏は、ありったけの力をふりしぼって叫び立てる。
「もう、よしてくれ!……おれの足へそんなものを塗ったくっているのは誰なんだ!……おい、誰だってえのに!」
キャラコさんが、手を動かしながらこたえる。
「あたしよ。……もう、ちょっとだから我慢してちょうだい」
原田氏が、急に黙り込んだ。もう、うんともすんとも言わなかった。頭をまっ赤にふくらせ、ギュッと歯を喰いしばって、とうとう我慢し通してしまった。
二人が病床についてから、もう、一月近くになる。
この六つめの山も、今までのそれと同じように、あまり好意のある反応を示さなかったが、山下氏と三枝氏は、たゆむことなく、毎日、朝はやく谷間へ降りて行った。
夕方になると、二人は疲れたようなようすをして小屋へ帰ってくる。
原田氏は、
「今日は、どうだった?」
ときく。黒江氏も、ささやくような声でようすをたずねる。
すると、山下氏は、判《はん》でおしたように、
「いいほうだ」
と、かんたんにこたえた。
キャラコさんも黒江氏も原田氏も、山下氏がそういう以上、鉱山《やま》はすこしずつうまく行っているのだろうと思っていた。ところが、それは嘘だった。
それから、また五日ほどたった夕方、遅くまで二人が帰って来ないので、河原まで迎いにゆくと、二人は鉱坑のそばの石に腰をかけて、白い夕靄《ゆうもや》のなかでこんな会話をしていた。
靄の向うで、つぶやくような山下氏の声が聞える。
「いよいよ、この山ともお別れだ」
ながい間《ま》をおいてから、三枝氏の声が、こたえた。
「そう、いろいろなものとお別れだ」
「いろいろなものに……」
山下氏としては、珍しく感情のこもった声だった。
また、ポツンと間があく。渓流《せせらぎ》の音が、急にはっきりと聞えだす。
山下氏が、つづけた。
「われわれの労苦がむくいられることなどは、すこしも期待していなかったのに、思
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