手《て》コップを取りあげると、這々《ほうほう》のていで実験室まで引きさがって行った。

 黒江氏が、チョコレートをすすりながら、遠慮がちに、つぶやくような声で、いった。
「……ともかく、あのお嬢さんに、家政と料理の天分があるということだけは、認めてもいいわけだね」
 三枝氏が、同じような調子で、こたえた。
「……そのほうでは、たしかに良識《フェルニンフィテッヒ》だよ。こういう種類の快楽は、われわれの仕事の邪魔になるとしてもだな」
 原田氏が、怒ったような大きな声を出す。
「きいたふうなことをいうな。……ご同よう、下宿の女中と、研究室の小使いの庇護《ひご》のもとにいるだけで、ああいう女性の行き届いた心づかいなどを受けたことはかつて一度もないんだから、それが仕事の邪魔になるかどうか、経験として語りうる資格のあるやつは一人だっていやしないんだ。……ところで、おれの感想を率直に述べると、おれは、非常に愉快だった。……喰いもののことなんかいってるんじゃないぜ。……はじめての経験なんで、うまく感じをいいあらわすことはできないが、とにかく、呆気《あっけ》にとられるくらい愉快だった。……なんではあれ、見ず知らずのお嬢さんにこんなに親切にされて、それが感じられないんじゃ、諸君は、相当な非人間《インユウメン》だぞ」
 山下氏は、唇のはしにおだやかな微笑をうかべながら黙ってきいていた。かくべつ、原田氏の意見に反対するようなそぶりはしなかった。

     五
 毎朝、キャラコさんは、まだ東が白まないうちに起きあがる。火を焚《た》きつけて朝のご飯をしかけると、眠っている四人の眼を覚まさないように、手早く、しずかに部屋の中を掃除する。まるで自分の心の中のように部屋を掃く。どんな隅でも掃き落とさない。
 四時半には、小屋の中がさっぱりとなっている。掃除がすむと、鉱山《やま》でつかう道具をそろえて、すぐ出かけられるようにしておく。五時には台所の食卓の上で、味噌汁とご飯が湯気《ゆげ》をあげて山へ行く四人を待っている。五時になると、四人がいっせいに起き出す。朝飯《あさはん》を喰べている間にサッサと寝床を片づけ、寝袋《スリーピング・バッグ》をよくたたいて戸外《おもて》へ乾《ほ》す。四人が出かけてゆくと、分析台の掃除にとりかかり、それがすむと洗濯をしたり繕《つくろ》いものをしたりする。十時になると、そろ
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